わたしが選んだ器

使徒言行録25章23~27節

澤田 武師

主題聖句 『しかし、この者について確実なことは、何も陛下に書き送ることが出来ません。』

使徒言行録25章26a節

 最近、国宝にも指定されています「曜変天目茶碗」(ようへんてんもくちゃわん)が新たに発見されたとの報道がありました。「器の中に宇宙が見える」と言われる、その深い世界観ゆえに高い価値を持った「器」です。しかし偽物ではないかとの指摘もあります。本物か偽物か、それぞれは「真実」を主張していますが、「事実」としては一つ「器」がここにあるということです。
 聖書には「器」という言葉が結構多く使われています。わたしたちは神様に作られた、間違いなく世界で一つのオリジナルな「器」です。イエス様を一番宣べ伝えた人物パウロは、イエス様に一番用いられた「器」、これは事実です。
 フェストゥスは、パウロがローマでの裁判を望んでいることに「戸惑い」を感じています。上級裁判に送るのには罪状が必要だったからです。フェストゥスはアグリッパ王を利用してパウロの罪状を求めようとしました。
 彼には分りませんが、この出会いこそは、イエス様が「あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」(使徒9:15)と語られた御言葉の成就です。さらに「ローマでも証をしなければならない」(使徒23:11)パウロは伝道に用いられた「器」であるとの神の決意が示されたものです。
 神様はイエス様を飼葉桶の中に生まれさせてくださいました。飼葉桶は、子どもを寝かす「器」ではありませんが、神様はあえて用いられました。
 イエス様がかけられた十字架は、人の命を奪う「道具」であって、「罪の赦しと永遠の命」を表すものではありませんでした。しかし、神様はこれらを用いて、福音を表してくださいました。これが事実です。
 私たちは神様が作ってくださった「器」です。「復活」を信じる者として作り変えてくださった。私たち自身には何の価値もありませんが、私たちが神様に用いられた時、私たちは「高価で貴い器」となることが出来ます。これも事実です。