喜んで弁明いたします

使徒言行録24章10~23節

澤田 武師

主題聖句 「しかしここで、はっきり申し上げます。私は彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。」    24章14節
 テルティロの「偽り」の告発を、パウロは聞きました。パウロは、「喜び」をもってイエス様の復活、その「事実」を弁明します。生き生きと語るパウロの姿が見えるような気がします。
 パウロは「ナザレ人の分派」と呼ばれたこの名こそが、イエス様の福音に生きる者として、「主の道に従っている者」の名であると、「はっきりと、確信をもって」語ります。
 一方、ローマ総督フェリクスは「この道についてかなり詳しく知っていた」と、既に「福音」は知っていたようです。地位も権威もある。でも、今彼には喜びはありません。彼が判決を延ばしたのも、パウロからイエス様を信じる「真の喜び」とは、何であるかを聞こうと考えていたからではないでしょうか。
 私たちも経験します。信仰の初穂。福音は、家庭内に一時的な「騒動」を起こします。また、信仰生活に「つまづき」を感じる時は、「信仰の喜び」は、「心の騒動」へと変わってしまいます。
 
 キリスト教は、迫害の歴史から一つの事を証詞しています。それは、その時代の信仰者はどのような状況であろうとも「喜びをもってキリスト伝え続けた」、という事実です。
 パウロは“なぜ”ここまで前向きなのか。それはイエス様にこそ、「望み、平安、希望」があると確信していたからです。信仰生活のキーワードは「御言葉を信じ、復活に希望を抱き、再臨を待ち望みつつ、この道を歩む」ことであると、パウロは私たちにも語っています。それは「この道」の内に在ります。
 ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は…、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」私たちの話を最も「聞いて」くださっているのはイエス様です。事実の言葉を語る時、それは福音として誰かの心に届きます。福音を告げる言葉を喜んでこの世に響かせましょう。