聖なる者となる

テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章16~24節

澤田 武師

主題聖句 「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。」  5章23a節
 聖書は、神様は「聖なる方」であると伝えています。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」と。
 ここで「聖」とは、神の絶対性、超越性を表す言葉です。その神が私たちも「聖なる者」となりなさいと、招いてくださる。
 「義認」から「聖化」へ、罪赦された新たな命の歩みが始まります。「聖化」は「主と同じ姿に造り変えられて行く」ことです。
 ホーリネスの信仰は、この「聖化」を特に重んじる信仰です。実践的であり、個人的な生活の中での「聖」を求める信仰と言えます。
 パウロは「キリスト・イエス」以外から聖化の恵みは与えられない、イエス様を知ることによって、初めて「喜び」「祈り」「感謝」を日々の生活の中に「いつも」「絶えず」「どんな時にも」と感じることが出来る、聖霊の働きによって「聖なる者」と変えられて行くと記しています。
 パウロは祈り求めます。「どうか、平和の神御自身が、あなたを全く聖なる者としてくださいますように。」と。霊も魂も体も欠けなく、非の打ちどころのないものとしてくださいと祈ります。
 パウロは、この誕生したばかりのテサロニケの教会が、再臨の時まで永遠に続くように、そこに集う者たちが、信仰の成長を留めることなく歩めるようにと祈ります。このパウロの祈りは、私たちの聖化を求める祈りです。再臨の時まで、私たちも悪から遠ざけてほしいとの祈りが聖化の歩みを進めます。
 ファリサイという言葉も「分離した者」という意味があります。律法を守れない者から「区別された者」彼らは「律法」を守ることを最重要と考え行動していました。彼らは「行い」において、信仰者として最も聖なる者であり続けようとしました。
 「聖化」の恵みが分からなくなってしまうのは、そこに我が再び現れてくるからではないでしょうか。

復活 苦しみの実り

イザヤ書53章7~12節

佐々木良子師

 輝かしい主のご復活、イースターを迎えました。私たちの罪のために主イエス・キリストは十字架にお架かりになりましたが、ご復活によって見事に救いの御業が成し遂げられました。
 イザヤ書53章においては、主の僕の受けた苦しみ、受難について語られていますが同時に、「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。」(11節)と仰せになります。苦しみの実りとは、十字架による罪の救いを信じた人々に与えられる永遠の命です。
 それは主イエスご自身が十字架にお架かりになった時に受けた痛み、苦しみよりも、希望の復活の命、生まれ変わった新しい命の誕生の喜びが語られています。それは母親の出産の時の苦しみを想像します。出産の激しい痛みや苦しみがあっても、新しい命の喜ばしい誕生と共にその辛さは忘れ去るものです。新しい命の誕生は苦しみ以上の喜びを私たちは知っています。
 「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネによる福音書12章24節)
 私たちはとかく、目の前にある出来事に一喜一憂するものですが、主なる神は常に苦しみの後の実りを見つめておられます。ですから聖書においては「苦しみ」を決して否定的に捉えてはいません。苦しむべきことを苦しみ、悲しむべきことを悲しみ、その苦しみ、悲しみを「喜びに代える」のが主なる神の大いなる御業です。苦しみ、悲しみの後に喜びがやってくるのではなく、「苦しみを喜びに代える」「悲しみを喜びに代える」のが、神の憐みと恵みです。キリストに繋がってさえいれば何も恐れることはありません。
 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハネによる福音書15章5節)
 主イエス・キリストの復活の命の恵みに生きる人を主イエスは更にこの世界のために用いてくださいます。私たちを通して、新しい命が豊かな命の実を結ぶことを望んでおられます。新しい年度を迎えるにあたり、目の前の苦しみだけを見つめることなく、苦しみの実りを見つめながら、30,60,100倍の豊かな実りを結ぶ者とさせて頂きたいものです。

命の終わり そして始まり

マタイによる福音書27章45~56節

佐々木良子師

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」〈46節〉
 主イエスは十字架にお架かりになる前に、本来なら私たちが叫ばなくてはならないこの叫びをご自身のこととして、主なる神に嘆き訴えられました。私たちが捨てられないために、私たちの身代わりにイエス・キリストが捨てられました。
 私たちは絶望する他ないような時に「神に見捨てられた」と、嘆き恨みをぶつけます。しかし、私たちが神に捨てられたと思っているところ、捨てられても仕方ないと思っているところ、そこに主イエスがおられます。そのことを身をもって十字架上でお示しになられました。
 「安心して絶望できる」と、宗教改革者のルターが語っています。どこにも助けがない苦しみの中で、頑張って希望を持とうとしなくても良いのです。絶望することが恐ろしく、絶望の淵から落ちないように何とかそこでふんばろうと、私たちは力を振り絞り苦しみあえぎます。しかし、絶望しても大丈夫なのです。その絶望の底で主イエスが支えてくださるからです。
 「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け・・・墓が開いて、眠りについた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出てきて・・・」(50~52節)その時とは、「そして、見よ、」と訳せる言葉です。イエス・キリストが神に見捨てられ、終わりとなったその時を見よ、とあります。つまり、誰が見ても終わりに見えたその時は、終わりではなかったと聖書は2000年以上伝えています。終わりではなく、決定的な出来事として希望の出来事として「復活」したと、命の始まりが記されています。絶望の先にある復活の命です(50~53節)。イエス・キリストによる十字架によって、私たちの絶望が打ち破られました。
 この世で絶望に無縁の人はいません。世の悪から、絶望から私たちが勝利するのでもありません。信仰の勝利者となる必要もありません。私たちは相変わらず弱く愚かなままでよいのです。相変わらず苦しみの中で絶望に陥ってもよいのです。そこで主イエス・キリストと出会い、その慈しみと憐みの中で守られていることに感謝できる者とさせて頂ける恵みがそこに備えられています。私たちを救うためにご自身を尽くしてくださる主イエスだけが救われる人生、生かされる人生のあることを、十字架を見上げる度に実感させてくださいます。

愛の迫り

ヨハネによる福音書12章1~8節

佐々木良子師

 「貧しい人々はいつもあなたがと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(9節)十字架の死を目前に主イエスは、後に主イエスを裏切るイスカリオテのユダを初め、神の愛に無理解な人々に対して仰せになったお言葉です。しかし、主イエスのこれから起ころうとしている人々の無理解、悪意、不当な裁判、十字架のために、唯、一人準備していたのがマリアという人物がいました。
 「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(7節)自分の深刻な罪を知っていたマリアは、その暗闇、悲しみを突き破る喜びを知っており、キリストに救われた者として感謝と喜びをもって仕えたのです。
 主イエスの愛に対して最大限の愛をもって応えたマリアは、自分の持っている高価なナルドの香油を全て主イエスに注ぎ、しかも自分の髪で主イエスの足を拭い取りました。この行為は彼女のこれまでの全人生をささげたということで、マリアの信仰そのものです。主イエスへの一途な愛と献身の麗しい姿として信仰者の模範として代々語り継げられています。
 マリアの行為は。結局は天に積まれたものです。恵みが天に積まれたとき、心も天に向けて開けるのです。祝福の光はそこから注ぎ込まれ、恵みはいよいよ自分の中で確かなものになっていきます。「・・・あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)主イエスへの一途な愛と献身の信仰生活を見出す者は幸いです。
 主イエスは私たちの足を洗い、私たちを受け入れ、罪なきものとしてくださり、その御命を与えてくださいました。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)罪から解放されるだけではなく、死からも解放されている私たちで、イエス・キリストの復活は、私たちに死を超えて新しい命に生かしてくださっております。ですから、死の時にも私たちには希望があります。このような祝福された生涯を神のために働ける者として、キリストの愛に生きる生涯を神は求めておられます。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)乏しい私たちが、神のために共に働かせて頂けるという恵みに感謝です。

十字架の死に至るまで

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

佐々木良子師

 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(6~8節)
 イエス・キリストの謙遜、遜りのお姿です。主イエスのご生涯は徹底した遜った人生でした。その目的は「・・・主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(Ⅱコリント8:9)と、私たち人間が豊かになるためと記されています。「豊かになるため」という事は、豊かではないということです。
 私たちの人生を振り返りますと、人は豊かな人生を求めて生きています。凡そ下に降る人生を人は求めないでしょう。上に、上にと少しでも今の状態より、上に昇る人生を求めながら生きています。それが豊かな人生を送ることができる道と考えがえるのが私たち人間です。しかし、神は「それがあなたたちの貧しさだ」と仰せになります。
 ふと立ち止まって考えてみるなら、私たちが求めるものは、全て自分中心の事柄ばかりです。人の幸せを願うよりも私が幸せになることを。人の痛みを知ろうとするよりも私の痛みを分かってもらいたいと。挙げればキリがありません。恥ずかしいことだらけです。「何事にも利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(3~5節)自分を守り、自分が豊かになることを求めるような貧しい私たちに、人のために生きるようとすることが豊かな人生だと神は仰せになります。
 イエス・キリストの遜りのお姿は、罪深い人間に対する神の赦しと神の愛そのものです。罪人である私たちを深く憐れんで、救ってくださる神のご意志に従うために、十字架の死まで従順に従われ、その命を与えてくださいました。取り返しのつかない私たちの人生を救うために、主イエスは不当な裁きを受け十字架に向かわれたのです。そうして十字架上で神のイエス・キリストの贖いが成し遂げられました。十字架の主イエスのお姿は私たちの傲慢な心を砕き、自分のことしか考えない人生を、隣人を愛し、神に感謝する人生へと変えてくださるのです。

十字架の命

ルカによる福音書9章18~27節

佐々木良子師

 「あなたはメシア、生ける神の子です」(20節)とのペテロの信仰告白を期に、主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」〈23節〉と仰せになって自ら十字架に向かわれました。
 確かに主イエスは十字架の死の道を歩まれましたが、聖書では十字架の先にある命の道、復活の道へと続いていることを語っています。主イエスが成し遂げられた十字架と復活の道に従う人は、死では終わらない復活の命の道を歩ませて頂けるのです。十字架と復活の大いなる御業のゆえに、主イエスの後に従うすべての人に、罪の赦しと死に勝利された復活の命が約束されています。ここに確かな希望があります。このようにして主イエスは十字架と共に輝く復活の命を示されました。
 そのためにも私たちはそれぞれ皆、負わなくてはならない十字架があります。時には何故このような十字架をと、つぶやきたくなる時がありますが、それぞれに自分サイズの十字架が与えられています。しかし、決して一人ではなく主イエスが共に背負ってくださっていますから何とか歩むことができるのです。
 ここで注目したいのは、「自分の十字架」です。自分サイズの十字架だけを背負えば良いのです。しかし、しばしば背負わなくてもよい余計な十字架を自らしょい込んではないでしょうか? 主イエスの思い、主イエスの御足の跡に従うのではなく、自分の思いが最優先され全面的に出ている時、本来負わなくてもよいものを背負い込み自分で自分を苦しめることとなります。
 主イエスを復活させた神の力に頼り、十字架と復活の道を切り開いてくださったイエス・キリストの後に従うのが、信仰者の歩む道です。ですから「自分の思いを捨て」アタフタすることなく、「自分の十字架を背負って」その御足の跡をついてきなさいと主イエスは仰せになります。
 神なき世界の苦難は苦難で終わりますが、主イエスの苦難の十字架は復活の道へと続く栄光です。マラソン走者が脇目もせずにひたすらゴールを目指して走り続けるように、主から与えられた自分の十字架を背負い、ゴールである栄光の御国を目指し本物の命、十字架の命に与っている私たちは何と幸いなことでしょうか。

鶏が鳴いた

マルコによる福音書14章66~72節

澤田 武師(宇都宮上町教会主任牧師)

 ペトロは危険を承知のうえで、主に従って大祭司の館の庭にまで行きました。それは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません。」と宣言をした「自分の言葉に従う」ことでした。この決断は無謀とも思えますが、ここにペトロの勇気・信仰から起こされた行動があります。大祭司の庭にいた女中はペトロに「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と言います。この後の出来事は、結果としてペトロの勇気、信仰を徹低的に打ちのめすことになりました。
 ペトロは「あなたが何のことを言っているのか、わたしにはわからない。見当もつかない。」と追及を打ち消します。その場をごまかすために、つい口から出た言葉であったと思います。ペトロは身の危険を感じ取り、出口に向かいました。女中はなおも「あの人たちの仲間です。」と周囲の人々に言いだします。ペトロは再度打ち消します。その時最初の鶏の声は、ペトロに自分の言葉を思い出させ、再び「奮い立って留まる」決断を起こさせたのでしょう。ペトロはその場に留まり続けました。
 ペトロは3回目の問いを聞きます。そこに居合わせた人々はペトロの言葉の訛りから、「お前はあの連中の仲間だ。」と追及します。反論をすればするほど、返って相手の確信は深まります。ペトロは誓いを立ててまでも「知らない」と応えます。その時2回目の鶏が鳴きました。その鳴き声は、主の言葉を思い出させました。そこには、全てを打ち砕かれたペトロがいました。ただ泣いて去って行くしか出来ない、ペトロがいました。
 この出来事は誰にでも起こるわけではありません。なけなしの勇気をもって、主に従い、恐ろしさに打ち勝つように留まる。この信仰がなければ、この挫折は起こりません。主に従い、「留まろうとする信仰」がない者には決して起こらないことです。ペトロは自分の信仰に挫折しました。罪の重さを示されました。
 しかし、罪を悔い改めて信仰に「戻った」ときから、新たなスタートになります。マルコは、ペトロのその後を記していませんが、主が復活された時「弟子たちとペトロに告げなさい」と、主イエスはガリラヤで再び会えることを伝えます。ペトロの歩みは、信仰に立ち帰る勇気を教えています。

大切なことは

使徒言行録15章22~35節

佐々木良子師

 先週は教会における最初で重要な会議であるエルサレム会議について共に学ばせて頂きました。結論は律法の行いではなくイエス・キリストの恵みを心から信じることによって救われることが確認されました。本日はその時の議長であったヤコブの言葉に耳を傾けたいと思います。
 「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。」(28節)大切な会議の決定は人の思いを遥かに超えた聖霊の導きに従ったものでした。教会において信仰の事柄を決めていくにあたって、ヤコブは何よりも自分たちの考えや思いを主張するのではなく、聖霊の導きと神御自身による伝道のご計画を祈りをもって探し求めました。
 教会は聖霊降臨によって生まれ、そして聖霊に満たされることで心が通じ合う世界が開かれたことが2章に記されています。神の祝福の原動力、そして教会の力は、私たちの内に聖霊が宿り支配することです。ヤコブはこのことを再度確信しならが大切な会議の結論を見出したと思われます。
 このことはエルサレム会議だけではなく、私たちの教会総会、並びに様々な決断をする時にも引き継がれています。十分な議論を重ね、様々な予算を立てて計画をすることも必要ですが、キリスト者は何よりも先ず聖霊の導きを共に祈り、神のご計画を確信して進むことが最優先です。
 教会は様々な選択をしなければならない出来事が多くありますが、導いてくださる聖霊のご臨在を信じ、その導きをその都度主を仰ぎみつつ決定していきます。常に「聖霊と私たち」の決断を求めていくことを主は望んでおられます。
 そうしてヤコブは異邦人クリスチャンと、とりわけ律法的な土台として持ちつつ信仰生活をしているユダヤ人キリスト者が交わるための際の互いに対する配慮を述べました。キリスト者は色々な決まり事に制約されず、全く自由であるというものですが、同時に異邦人キリスト者は、他の行動基準を持ったユダヤ人キリスト者に対する配慮を持つことが求められるということです。
 いつでも大切なことは相手が置かれている状況に対しての配慮を忘れてはなりません。様々な問題を対処するにあたり、「神の恵みによる救いの喜び」を忘れ去り、問題解決のために愚かな議論をし、果ては裁き合う悲しい思いをすることがあります。恵みを忘れない者でありたいです。

本当に大切なこと

使徒言行録15章1~21節

佐々木良子師

 紀元49年頃、教会の歴史の中で最初で、また最も大切なエルサレム会議というものが開かれました。そこで審議されたことは福音の本質に拘わる重要なものでしたが、そのきっかけとなった出来事は「割礼」の問題でした(1~2節)。
 割礼とは旧約時代、神から選ばれたイスラエル選民の特別なしるしのことを指します。既に割礼を受けているユダヤ人クリスチャンが、パウロたちの伝道によって罪を悔い改めて、イエス・キリストを救い主と信じた異邦人キリスト者に対して、自分たちと同じように割礼を受けさせモーセの律法を守らせるべきだという主張をした事が発端です。
 それは福音の根幹を揺るがせるものでした。人が救われるのは人間の行いや立派さ等によってではなく、又、信仰に何かをプラスするものでもなく、ただキリストの十字架によって神は全ての人の裁きと滅びから救ってくださるという神の憐みと恵みの約束を反故にするものです。
 そこでペトロが立ち上がり、10章からコルネリウスが救われた時のことを述べました(7~10節)。彼は割礼を受け律法を守ったからではなく、ペトロが語った福音の言葉を聞いて信じたのです。御言葉を信じ、御言葉に従って生活していく時、聖霊が働き私たちを現実に生かし、強め導いてくださいます(8節)。
 更に自分たちが負いきれなかった軛のことにも触れました(10節)。軛とは律法のことですが、完全に守ることができる人は一人もいません。にも拘わらず何故ユダヤ人クリスチャンは、救われた異邦人に首に軛をかけるようなことをするのかという怒りです(10節)。
 このようにペトロの言葉とパウロたちの働きを通して異邦人も「信じるだけで救われる」という福音を理解できるようになりました(12節)。この会議で確認された事は、救いはただ神の恵みによるもので、恵みとは、救われるのに値しない者を救って頂けることを指します。唯、救い主であるイエス・キリストを信じることによってのみ救われるのです。
 律法は「わたしたちをキリストのもとへ導く養育係」(ガラテヤ3:24)と、律法を全うできない人間の不完全の悲しさを知るゆえに、それを成してくださったキリストの十字架の有難さが身に染みるのです。「ねばならない」から「ありがたい」へと変えられるのが信仰の原点です。

全ての土台はイエスさま

使徒言行録14章21~28節

佐々木良子師

 パウロの第一次伝道旅行の締めくくりの箇所です。今までは新しき地に、前へ前へと進んできましたが、今回は今まで伝道し迫害に遭遇したリストラ、イコニオン、アンティオキアの町を引き返すという行程となります(21節)。
 瀕死の重傷を負わされたようなリストラの町を戻るのですから、再度危険な目に遭遇する可能性が大です。しかし、そのような地においてもイエス・キリストを信じる弟子たちが多く生まれていたので、その人々を力づけるために危険を冒してまで引き返したのです。
 パウロは「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(23節)と語っています。人間の歩みを聖書から見ると平穏無事な日々よりも試練や苦難、迫害の歴史がつきものです。多くの信仰者たちは言語に絶するような壮絶な目に遭っていますが、信仰を捨てるどころか、益々熱く燃えたのです(へブライ11:32~38)。パウロもその一人です。
 その根拠は「あなたがには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)主イエスのご生涯が「苦難」の極みである十字架を通して死を征服し、救いに至る道、「復活の勝利」を成し遂げられたから、この世のどのような苦難も打ち勝つことができます。苦難から栄光へと結びついているのが主イエスと共に歩む世界です。パウロもその身をもって体験してきたからこそ弟子たちに伝えたいと願ったのです。
 更に「勇気を出しなさい」と主イエスが仰せになる時には必ず「わたしだ」と、ご自身を示してくださっています。嵐の中、試練の中、主イエスを信じる者と共にいてくださいます。主イエスを救い主と信じる全ての人に与えられる恵みです。
 そうしてパウロはアンティオキアの教会に戻り、神がこれまで成してくださった恵みを報告しました。彼らは「こんなにひどい目にあった」と、言う事もできたでしょう。しかし彼らは自分たちの身に降りかかった災いや、自分たちの頑張りを報告する為に戻ったのではありません。神が異邦人に信仰の門を開いてくださったことなど、救い主イエス・キリストに対する生きた信仰を証明するためです(27節)。信仰者は、私が何をしたかではなく「神がこの私にしてくださった恵み」を語り、栄光を主に帰すことの幸いを知っています。