愛の迫り

ヨハネによる福音書12章1~8節

佐々木良子師

 「貧しい人々はいつもあなたがと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」(9節)十字架の死を目前に主イエスは、後に主イエスを裏切るイスカリオテのユダを初め、神の愛に無理解な人々に対して仰せになったお言葉です。しかし、主イエスのこれから起ころうとしている人々の無理解、悪意、不当な裁判、十字架のために、唯、一人準備していたのがマリアという人物がいました。
 「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」(7節)自分の深刻な罪を知っていたマリアは、その暗闇、悲しみを突き破る喜びを知っており、キリストに救われた者として感謝と喜びをもって仕えたのです。
 主イエスの愛に対して最大限の愛をもって応えたマリアは、自分の持っている高価なナルドの香油を全て主イエスに注ぎ、しかも自分の髪で主イエスの足を拭い取りました。この行為は彼女のこれまでの全人生をささげたということで、マリアの信仰そのものです。主イエスへの一途な愛と献身の麗しい姿として信仰者の模範として代々語り継げられています。
 マリアの行為は。結局は天に積まれたものです。恵みが天に積まれたとき、心も天に向けて開けるのです。祝福の光はそこから注ぎ込まれ、恵みはいよいよ自分の中で確かなものになっていきます。「・・・あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(ルカ10:20)主イエスへの一途な愛と献身の信仰生活を見出す者は幸いです。
 主イエスは私たちの足を洗い、私たちを受け入れ、罪なきものとしてくださり、その御命を与えてくださいました。「罪の支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:23)罪から解放されるだけではなく、死からも解放されている私たちで、イエス・キリストの復活は、私たちに死を超えて新しい命に生かしてくださっております。ですから、死の時にも私たちには希望があります。このような祝福された生涯を神のために働ける者として、キリストの愛に生きる生涯を神は求めておられます。
 「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ロマ8:28)乏しい私たちが、神のために共に働かせて頂けるという恵みに感謝です。