イエス様が十字架に

ルカによる福音書23章32~43節

佐々木良子牧師

 「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。…イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(41~42節)イエス・キリストと共に十字架につけられた犯罪人の告白です。
 今迄誰よりも神から遠く離れていたこの犯罪人が、誰よりも一番近い場所、それも、主イエスの隣の十字架の上に身を置きながら「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)との主イエスの執り成しの祈りを自分への祈りとして聞いたのです。
 更にそこで見たのは、罪なき神の御子であられる主イエスがご自身の命を惜しまれず十字架上で身を裂き、血を流しながら罪人を救おうとなさっているお姿でした。この事を通していち早く十字架を理解できる者へと変えさせて頂いたのです。自分のことしか見ることができなかった犯罪人が、主イエスの忍耐と神の愛を見た瞬間です。
 主イエスを民衆は嘲笑い、侮辱し、罵り、唾を吐き続けて十字架につけましたがその民衆が勝利したのではなく、神の御心が勝利したのです。罪人を愛し、十字架によって救う神の御心です。神の御心は十字架につけられた者の上にも及ぶのです。
 そのような彼に主イエスは「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(43節)と約束されました。「イエス」という名の意味は「神は我々と共におられる」と、記されています(マタイ1:23)。主イエスご自身が十字架にお架かかりになりながら、そのお名前の如く最期まで犯罪人と共にいてくださり、その使命を果たされました。裁きの十字架はこの罪人にとって、その時に楽園へと既に変えられました。
 主イエスの十字架は、このように悔い改めた犯罪人と、罪の赦しを最期まで自分の事として体験する事ができなかったもう一人の犯罪人の真ん中に立てられていました。主イエスの十字架は私たちに向けられた神の愛です。私たちがどんなに拒んでも私たちへの愛は滅びることはありません。神の愛と主イエスの忍耐に応えるもう一本の十字架と、拒むもう一本の十字架、この3本の十字架は永遠に私たちの心に刻み付けられていきます。

そこで今、もうしあげたい

使徒言行録5章33~42節

佐々木良子牧師

 「…あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ」(38~39節)
 迫害されても尚、屈しない使徒たちの言動に対して大祭司を初めとするユダヤ人指導者たちの怒りは「殺そう」と、頂点に達していました(33節)。そのような中で後の伝道者パウロの指導者となる人物で、人々から尊敬されている選りすぐりの律法学者であるガマリエルが立ち上がりました。かつてユダヤを混乱させる反乱事件がありましたが、当事者たちは結局、神に裁かれたのだから神に任せるべきだというのです(36~37節)。
 神の働きは何ものにも妨げられず、すべて御心のままに果たされます。この神を見せて頂きながら信仰者は歩んでいきます。神を信じない人は自分の感情、欲求に突進しますが、信仰者は神の御心が何であるか問いながら、自分が整えられ正されながら生きていきます。
 ガマリエルの提言に対し大祭司たちは、使徒たちを殺すことは避けましたが鞭で打ち、再度福音を語る事を禁じました。にも拘らず使徒たちは「…イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び…メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」(41~42節)と、人は辱められたら悲しみ打ちひしがれるものですが、使徒たちは喜んだのです。勿論肉体的な痛みはあった筈ですが、主イエスの復活の力と、聖霊の力を経験してきている彼らは、その苦しみの最中で自分たちが神の御手の中で生かされていることを悟った事でしょう。主イエスが十字架にお架かりになった時、見捨てて逃げ出した彼らが今、究極の場においてもそこに留まり続け主イエスを証しさせて頂くものとしてそこに存在している自分たちを喜べたのではないでしょうか。
 主イエスは弟子たちを世に遣わす時、狼の中に羊を送り出すようなものだと仰せになりました(ルカ10:3)。人は悪の力に対して無力で、弟子たちも狼に対抗するものを何ら持っていませんでした。鞭打たれるままの羊であり続けたからこそ、そこに働く神の力を身を持って証しする事ができたのです。弱い時こそ強いとの如くです。悪にし返しをするなら人はそうやって自分も狼になっていきます。全てが神の御手の中にあることを委ねて人は生きていくのです。

それでも神は

使徒言行録5章17~32節

佐々木良子牧師

 「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(32節)イエス・キリストの復活の恵みを身に受けて、証人として歩み始めているペトロや使徒たちと、未だ自分たちの思いに縛られ「いらだち」(4:1)から「ねたみ」(5:17)に燃えている大祭司たちの対照的な生き様が記されています。
 「…ねたみに燃えて、使徒たちを捕えて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさいと言った。』」(17~20節)聖霊なる神が我が内に力強く働かれる時、廻りの人間の思惑を超えた神の力が与えられるばかりか、より一層使命に生きようと立ち上がらせてくださいます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1:8)と、仰せられた主イエスの約束が迫害の只中にも実現しているのです。
 どのようにユダヤ人指導者たちがペトロたちを脅しても神の力はいよいよ増し加わり、より一層主イエスの復活の力を証ししていく彼らとなっていきます。主イエスは仰せになりました。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」(ルカ12:4)神に従う者は決して何ものにも縛られることはありません。人間に従うよりも、神に従う者の強さです(29節)。
 ペトロやユダの裏切りをご存知で最後まで主イエスは弟子たちを守り、弟子たちの罪を赦し、導いてくださったことを彼らは迫害の中でより一層強く感じた事でしょう。彼らは自分達の失敗を通して、神の御計画の中にある自分たちの存在を体験し、神に従う者の豊かさに与る事ができました。
 しかし一方大祭司たちは、未だイエス・キリストの罪の赦しが分からず、主イエスを十字架に架けてしまったという責任問題に恐怖心を覚え、使徒たちを迫害し続けています(26~28節)。神を見る者と人を見る者の違いが一目瞭然です。キリストの復活は罪びとの誤りを指摘するものではなく、悔い改めと罪の赦しを与え、主イエスへのもとへと導くものです。ペトロたちはこの導きを身に受けつつより一層力強く証し人として歩み続けていくこととなります。神はそれでも尚、ペトロや使徒たちを迫害という試練の中に置き続け、十字架の先に輝く栄光のキリストを彼らを通して示し続けていかれます。

私はあなたを愛している

イザヤ書43章1~4節

富山希望神学生

 イザヤ書43章4節は神からの愛の告白である。イザヤは、バビロン帝国によって捕囚の身となったイスラエルに預言を語った。
 イスラエルの罪は重く、神はイスラエルが捕えられるに任された。しかし苦しむ民を神は見捨てられることはない。神は民に、慰めをもって臨まれるのである。
神は、イスラエルの人々を「ヤコブ・イスラエル」と呼ぶ。ヤコブは罪の結果、大切な居場所を失うが、神様はヤコブを呼ばれる。「イスラエル」は兄を恐れるヤコブに神が与えた名である。神様はこの二つの名を呼んで、この民と共にいることを確認する。呼び、恐れるあなたと共にいると言われるのです。罪のゆえに、人間は堕落したが、神は造った者としての責任と、愛をもって「お前は私のもの」と呼ぶのである。
 神は苦難の中でも共にいる神である。旧約聖書に登場する人物は信仰の戦いの際、神が共におられると信じ、神がたとえその苦難の中から救われなくても、神を信じた。
 神は、身代わりとして人を与える神である。神はたとえ、人間が背いても、人間を愛することを止めない。神様の目には人は、値高く、貴く、映っているのである。神は、罪人を裁くが、見捨てることはない。憐れみを持って臨まれ、この民を救おうとしているのである。イスラエルの実際の解放、救いはペルシャのキュロス王の時代に起こる。現在の私たちにとっての救いは、イエス・キリストが身代わりとなって死んだことによる救いなのである。私たちを救うために、独り子すら惜しまず与える神の愛に、今日も私たちは生かされているのである。

多くのしるしと不思議な業

使徒言行録5章12~16節

佐々木良子牧師

 旧約の神は裁きの神で新約の神は愛なる神だとよく言われますが、神は古の昔から変わることなく愛なるお方であると同時に、罪をそのままにはしておかれません。神の愛と共に常に神への畏敬の念を持つ人は幸いです。アナニアとサヒィラは神の前に偽り制裁を受ける事となり、「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた。」(11節)とあります。世の人々は神とは恐ろしい存在であると思った事でしょう。更に「使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議な業とが民衆の間で行われた。」((12節)と、御言葉の宣教と共に多くのしるしと不思議な業が行われており、教会とは謎の群と映った事と思われます。
 そのような中でも神に対して畏敬の念を持ちつつ、自分を造り変えてくださる神の御力によって生きる人々の群が大きくなっていき、教会が建て上げられてきました(13~14節)。その業は今も受け継がれていますが、いつの世もこの恵みを受け取ることを拒む人が存在する事も事実です(13節)。教会の門戸を叩く方は少数で、更にせっかくおいでになっても去る方も多くおられます。この現状に時には失望しますが、教会の目的は教会を大きくする事でも人を増やす為ではありません。教会の主であるイエス・キリストの仰せになった事、行った事を継承し、その結果恵みの中に入れられる人がいて大きくなっていくのです。教会は神の愛だけが語られる訳ではなく、時には神に打たれる時もありますから、この世的には決して居心地の良い場でない時もあります。しかしそうして人は造り変えられながら真の意味での安らぎを見出して行く場です。
 「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らの証しとして足についた埃を払い落しなさい。12人は出かけて行き…至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」(ルカ9:7~8)「主イエスは受け入れて頂けない時はそれでよいと仰せになりました。為すべき事をしてだめなら、毅然と誇り高く立ち去ればよいと。その伝道は失敗したのではありません。
 福音を受け入れて頂こうと、教会の本質を曲げてこの世に合せるような事があってはならないのです。たとえ仲間に加わろうとしない人々があっても(13節)、神はその御業を着々と進めておられ教会は教会として存在し続けていきます。それが神の力です。「…しかし、民衆は彼らを称賛していた。そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」(13~14節)

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ありのままで

使徒言行録5章1~11節

佐々木良子牧師

 教会が誕生し迫害はあったものの順調に成長してきたかのようでしたが、教会の内側から問題が起きました。「なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。」(3節)「サタンと」は、神と人を離そうとする悪の力です。この戦いはいつの世もついて廻るものです。教会の為、神の為と心を尽くしている内にサタンに心を奪われてしまい本末転倒になってしまう事が多々あります。
 4章32~36節では、貧しい人々の為に自分の持ち物を売ってお献げするという麗しい人々の姿が記され、その代表格のような存在がバルナバでした。アナニアとサフィラは刺激を受け、自分たちの土地を売って献げたのですがこれがサタンの大きな誘惑だったのです。土地を売った全額を献げていないにも拘らず、全てのように嘘をついたのです。彼らの行為は神を喜ばすものではなく、人々の称賛を得るためで、いわば、見栄の為に神を利用した行為でしたから大きな罪を犯す事となったのです。「人が冒す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、霊に対する冒涜は赦されない。」(マタイ12:31~32)神を誤魔化す者、神を畏れることが欠如している人への警告です。
 神への献げものは全てを献げよという規定はありません。むしろ旧約聖書には1/10と言われていますから、一部であっても十分であった筈です。「5つのパンと2匹の魚」が主イエスに献げられた時も、少年がイエスさまに、持っているものをありのまま喜んで捧げた時、その場にいた5000人以上もの人が全て満足したとあります(ヨハネ6:9~13)。心から感謝して神にお献げするものを神は喜んで用いてくださいます。「あなたの富のあるところにあなたの心もあるのだ」(マタイ6:21)富は悪いものではなりませんが、富は地上で腐らせることもできますが、天に積むこともできます。富が天に積まれた時、心も天に向いて開かれ祝福はそこから注がれます。
 アナニアたちのように神の愛に向かわず、嘘をついて自分以上の自分を演じていくなら、祝福どころか霊的に死んでしまうことになってしまいます。私たちは罪深いものであるにも拘らず、神にありのままに受け入れられているのですから、神の前に嘘偽りなく感謝をもって生きていきたいです。人々の前に自分を大きく見せようと思った時はサタンに心を奪われている時でもあります。

心も思いも一つ

使徒言行録4章32~37節

佐々木良子牧師

 「一人ぼっちのクリスチャンはいない」と、私たちが属しているホーリネスの群の源流であるジョン・ウエスレーという人は語りましたが、正にその姿が本日の箇所に記されています。初代教会の特徴は大きく分けて、1,心も思いも一つ(32節) 2,財産や持ち物を献げ(32節) 3,主イエスの復活を証し(33節) 4,貧しい人たちへの配慮(34節)がありました。
 心も思いも一つになるとは、皆で仲よくうまくやって与えられるものではなく信仰によるもので、それが信仰共同体としての教会の姿です。教会はイエス・キリストを信じた人々の群を指し、十字架と復活を自分との関わりの中で受け止め、主イエスの導きに心から感謝して従っていく人々の群です。そしてクリスチャンになるとは洗礼を受けてキリストに結ばれるだけではなく、神の家族としての仲間に入り、共に祈り支えられながら天国を目指して歩んでいきますから、一人ぼっちのクリスチャンはいないという事です。
 ドイツ・バイエルンの農村の教会に35年務めたヴィルヘルム・レーエという牧師は「この地域の人々は、たとえ、立派に生きることができなかったとしても、立派に死ぬことを心得ておりました」と語ったそうです。死を迎える仲間を孤独にせず、その魂の配慮に生きることが、教会の群がするべきこと、キリスト者であれば、誰もがすべきことであると言います。クリスチャンの最期は、皆が心を合わせて神の御言葉をお聞きし、祈り賛美して天国へ旅立ちます。教会だからこそできる慰めと恵みと希望です。皆が一つ思いとなって主なる神を仰ぎ感謝し恵みを頂く究極の時といえます。
 誰もが立派に生きる事などできないものです。又、成功する人、挫折する人、様々な人生があります。しかし、教会に生きる者として最期を迎える道を弁えているという事は共通です。内村鑑三の愛娘ルツ子姉は19歳で天国へ凱旋しました。最期に「もう行きます」と終え、埋葬の際に内村は「バンザイ」と言ったと言われています。立派に死に、立派に送った者の姿と言えます。
 正に教会での葬儀とは立派に死んで行く人と立派に送る人が一つとなる時です。人間の力ではなく神の力が支配する所に人間の思いを超えた一致を体験させて頂きつつ、尚、心も思いも一つとなって歩んでいく恵みが教会にあります。そうして一人一人の心に神の愛が染み渡り、整えられていきます。

今こそ、思い切って大胆に

使徒言行録4章23~31節

佐々木良子牧師

 初代教会とその後の約250年は、過酷な迫害の連続でした。しかし、イエス・キリストに忠実なキリスト者たちが信仰に命を賭け教会を守り、信仰の灯を点し続けられた事により今のキリスト教が存在しています。
 その勝利の秘訣の一つは祈りです。初代教会の歴史は「祈り」の言葉で埋められていると言っても過言ではありません。目の前の迫害者に目を向けるなら、その人の憎しみ敵意が見えてきたと思います。「あなたがたには苦難がある、しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)「…キリストの苦難とそれに続く栄光…」(Ⅰペトロ1:11)とありますように、諦めずに勝利者イエス・キリストを信じ、最後まで祈り続けた彼らでした。キリスト者は嵐や試練の中、どのような時も主イエスが共にいてくださることを信じているからこそ安心して大胆に祈ることができます。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」(使徒4:29~30)捕われの身となったペトロとヨハネは、釈放される時に福音を語る事を固く禁じられました。にも拘らず、自分たちの安全を祈るのではなく、更に大胆に伝道することができるように祈り求めたのです。
 その背後にある力は信仰の仲間、祈りの仲間でした。「さて、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った…主よ、あなたは天と地と海と、そしてそこにあるすべてのものを造られた方です。…」(24節)危機的状況の中で、主なる神に全幅の信頼を寄せる事と、「心を一つ」とする仲間がいた事が迫害をも恐れない大胆な祈りへと導いた事でしょう。
 更に迫害をも恐れない恵みがありました。「…見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(4:20)神の希望に満たされた人々は苦しみの先にある大きな喜びを知っていますから、困難な状況であっても恵みを語らずにはいられないのです。人生には様々な問題や試練、不当な苦しみや悲しみがありますが、それにも勝った恵みを知る者は幸いです。どのような時にも大胆に恵みを語らずにはいられない信仰者でありたいです。

神の御前に生きる

使徒言行録4章1~22節

佐々木良子牧師

 キリスト教の歴史は迫害の連続で殉教者も多く出ましたが、尚、このように2000年以上も福音が世界に宣べ伝えられているのは、神の言葉が真実であるという事が証明できます。又、どのような暗闇であっても絶望的状況であっても、神の御前に生きるならば、恐れるものは何一つないということをペトロは証ししています。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(19~20節)
 いよいよ伝道が本格的に開始されましたが、ペトロとヨハネはユダヤ人の最高議会に尋問を受け捕われました。しかし、「聖霊に満たされて」主イエスを大胆に証ししたのです。かつて主イエスは、捕われの身となっても聖霊が語らせてくださるから心配する事はない、と仰せになった通りです(マルコ13:9~12)。常に神に向かって生きている者には、必ず神の助けがありますから恐れる事は何もありません。しかし、ペテロといえば、主イエスが十字架に架けられる時、3度もキリストを知らないと、見捨てて逃げてしまった人です。しかし、彼は死者の中から復活されたキリストの希望の恵みを体験し、全く違う人間に変えられていました。それまでは人を恐れ自分の身を守るために主イエスを見捨てることをも厭わない者でしたが、神を畏れる者とされた彼は危険をも顧みずイエス・キリストの十字架と復活を証しする者へと変えられたのです。
 「…ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということが分かった…一言も返せなかった…脅しておこう」(13~18節)議員たちは聖書の専門教育を受けていない二人が聖書を自由に用いて大胆に語っている姿に圧倒され、そこに主が働いておられることを理解しました(10~12節)。議員たちは神を知る事となったと同時に自分達が完全に信頼を失う事を恐れ、更に厳しく脅かし始めました(17節)。しかし、ペトロたちは屈することなく更に大胆に語り続けます(19~20節)。神の前に生きる姿と人の前に怯えて生きる対照的な姿です。大切なことは自分が置かれている状況ではなく、そこで何を信じ、何を考え、どのように生きていくかという事が問われます。神に向かう生き方をペテロたちは示す事となりました。主イエスは「人に惑わされないように…」と仰せられました。

罪が消し去られる

使徒言行録3章14~16節

佐々木良子牧師

 「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(19節)私たちに呼びかける神の御声で、聖書全体に貫かれているお言葉です。
 人間の歴史は罪の連続と言われています。その最たるものは命の導き手であるイエス・キリストを十字架につけたことです(13~15節)。神は正しいお方ですから、罪を罪としてそのままにはしておかれず、「消し去られるように神を求めよ」と命じておられます。言い換えれば、悔い改めさえすれば罪を消して頂く事ができますが、悔い改めなければ罪は消されないということもできます。消し去るとは「無効にする、なかったことにする」という事で、神の前にある罪の記録を白紙にしてくださいます。その目的は又主イエスがこの世においでになられた時=再臨の時のためです(20節)。
 「・・・地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける・・・あなたがた一人一人を悪から離れさせ、その祝福にあずからせるためでした。」(25節) その為に神はイスラエルの人々を特別な立場に置き、彼らを通して諸国民に祝福をもたらそうとされました。神は先祖アブラハムと結んだ契約の祝福は、彼らを通して大きな責任と特権が与えられていたのです。そして、今、私たちがその祝福の源となるように神は望んでおられます。
 「主はこう言われる。わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。」(イザヤ49:8節)罪赦されて今あるのは、私たち自身が祝福の源となって救いの道を示すためです。信仰とは個人に留まるものではなく、全人類がその祝福に与るために、先ず私たちが救われたのです。主なる神の目的に心を向けていくとき、神がこの私が祝福の源とさせてくださる事に感謝できる者へと変えさせて頂き、主イエスのお役に立ちたいと仕えるものとさせて頂けます。
 主イエスが十字架にお架かりになった時「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と執り成しの祈りを奉げられましたが、今もこの邪悪な暗闇の世界を救いたいと、罪びとの為に執成しておられます。神の御業は人間が神に従い、自ら一歩踏み出していく時に現れます。今こそ全世界の罪が消し去られるように祝福の源とさせて頂く時です。