それでも神は

使徒言行録5章17~32節

佐々木良子牧師

 「わたしたちはこの事実の証人であり、また、神がご自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます。」(32節)イエス・キリストの復活の恵みを身に受けて、証人として歩み始めているペトロや使徒たちと、未だ自分たちの思いに縛られ「いらだち」(4:1)から「ねたみ」(5:17)に燃えている大祭司たちの対照的な生き様が記されています。
 「…ねたみに燃えて、使徒たちを捕えて公の牢に入れた。ところが、夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出し、『行って神殿の境内に立ち、この命の言葉を残らず民衆に告げなさいと言った。』」(17~20節)聖霊なる神が我が内に力強く働かれる時、廻りの人間の思惑を超えた神の力が与えられるばかりか、より一層使命に生きようと立ち上がらせてくださいます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(1:8)と、仰せられた主イエスの約束が迫害の只中にも実現しているのです。
 どのようにユダヤ人指導者たちがペトロたちを脅しても神の力はいよいよ増し加わり、より一層主イエスの復活の力を証ししていく彼らとなっていきます。主イエスは仰せになりました。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。」(ルカ12:4)神に従う者は決して何ものにも縛られることはありません。人間に従うよりも、神に従う者の強さです(29節)。
 ペトロやユダの裏切りをご存知で最後まで主イエスは弟子たちを守り、弟子たちの罪を赦し、導いてくださったことを彼らは迫害の中でより一層強く感じた事でしょう。彼らは自分達の失敗を通して、神の御計画の中にある自分たちの存在を体験し、神に従う者の豊かさに与る事ができました。
 しかし一方大祭司たちは、未だイエス・キリストの罪の赦しが分からず、主イエスを十字架に架けてしまったという責任問題に恐怖心を覚え、使徒たちを迫害し続けています(26~28節)。神を見る者と人を見る者の違いが一目瞭然です。キリストの復活は罪びとの誤りを指摘するものではなく、悔い改めと罪の赦しを与え、主イエスへのもとへと導くものです。ペトロたちはこの導きを身に受けつつより一層力強く証し人として歩み続けていくこととなります。神はそれでも尚、ペトロや使徒たちを迫害という試練の中に置き続け、十字架の先に輝く栄光のキリストを彼らを通して示し続けていかれます。