生きるにも死ぬにも

フィリピの信徒への手紙1章12~21節

澤田直子師

主題聖句 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」 フィリピの信徒への手紙1章21節
 再び講壇に立ち、御言葉の取次ぎをさせていただく恵みに感謝します。聖書のこの箇所は、入院中に何度も示された御言葉でした。
 フィリピは人工的な町で、ローマの職業軍人が退役して集まっていました。階級としては百人隊長以上、中産階級と年配者が多い落ち着いた雰囲気の町であったようです。パウロがここを訪れた時のことは使徒言行録16章に短く書かれていますが、フィリピの信徒の多くはローマにルーツを持つ異邦人でした。しかしフィリピの教会とパウロは信頼関係と祈りで結ばれ、自活にこだわったパウロもフィリピからの援助は喜んでいます。
 フィリピの信徒への手紙は「獄中書簡」ですが、パウロは何度も獄につながれましたから、いつの、どこの、という点では多くの説があります。おそらくは紀元60年代、ローマで二度目に投獄された時と思われます。この時は殉教につながる投獄でした。
 そのような中で12節「わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしい」とパウロは書き送ります。18節には「とにかくキリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。」とあります。この手紙には「喜ぶ」という言葉がたくさん出てくるので、別名「喜びの手紙」と呼ばれています。殉教を目の前にして獄中で書かれた手紙が「喜びの手紙」なのです。パウロは自分の命はともかく、神様のご計画は、全体として良い方向へ進んでいるのだから、心配はいらないと語りかけているのです。
 生きるにも死ぬにも、わたしたちは神様のご計画の中にあり、主のものとして取り扱われます。わたしたちがいることが、あるいはいたことが、神を証します。わたしたちは生きるにも死ぬにも神の相続者であり証者です。
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ダビデに続く

ルツ記4章11~22節

澤田 武師

主題聖句 『近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。』 ルツ記4章17節
 旧約聖書では、豊かに益し加えられて、与えられることは神様からの“祝福”と考えられます。ルツとボアズの結婚はまさに神様の“祝福”となりました。
 11節「わたしたちは証人です。」ナオミの嗣業の土地の、買い戻しの交渉に立ち会った長老たち、また広場に居合わせた民衆は、この結婚が神様からの“祝福”であることを喜び、証人となることを承諾します。
 神様の祝福はかつてヤコブの妻たち「ラケルとレア」、(正式には、側女ビルハと、側女ジルパの2人も含む)に授けられ、12部族連合の基となる12人の子どもが与えられました。神様は彼女たちを通して、イスラエル建国の礎となる祝福をお与えになったのです。更にその中の一人、ユダの子どもを宿したタマルは、イエス様に続くユダ族の礎となったのです。
 ルツがボアズと作る新しい家庭に、イスラエルの族長たちに与えられたと同じ“祝福”があるようにと、証は祈りへと変わります。
 14節「主をたたえよ」と、女性たちは喜びます。「主が身ごもらせたので、ルツは男の子を産んだ」と、ルツの日常に神様が働かれていたことが証しされています。モアブの地で孤独と失望に覆われて帰国したナオミは今、腕の中に子ども(オベド・仕える者)を抱いています。この子はナオミの今後の生活を支え、将来の祝福となる、神様が与えられた約束です。
 マタイ福音書の系図はイエス様に至って終わります。ナオミもルツも、自分たちの子孫からユダヤの王が出ること、救い主がお生まれになる事実を知ることはありませんでした。人間が知ることの出来る時間は、限られています。
 神様が備えてくださる“私たちの日常”は、やがて示される神様の栄光のためにあるのです。だから私たちの今がどのようなものであろうとも、私たちはここで神様を待ち望みましょう。私たちは今日、私たちの日常の中にある、神様の永遠のご計画を見ましょう。
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六杯の麦の証

ルツ記3章10~18節

澤田 武師

主題聖句 「ルツがしっかりとつかんだ肩掛けの中に大麦を六杯量ってルツに背負わせると、ボアズは町へ戻って行った。」 ルツ記3章15節c
 ルツ記は各章に“時”を記しています。1章22節「大麦の刈り入れが始まるころ」、そして2章23節「大麦と小麦の刈り入れが終わるまで」。ルツは神様の導きにより、ボアズの畑で落穂を拾います。そして3章2節「今晩、麦打ち場で大麦をふるい分ける」、と大麦の刈り入れの終わりを告げます。それは、ボアズの好意によって養われる時の終わりが近いことを意味しています。
 ナオミはボアズが抱いているルツへの好意、さらに、エレメレクの嗣業の土地の買戻しの義務と権利を持つ親戚でもあることから、ルツの幸せのため、嗣業の地を残すために、ボアズをルツとの結婚に導こうとし、ルツに言葉を託します。「このはしためを覆ってください。」ルツはボアズへ迫ります。そしてボアズにすべてを託します。ルツのボアズへの証の言葉です。
 「その後すべきことは、あの人が教えてくださるでしょう。」この言葉は、ボアズへの信頼、ルツに託したナオミの証の言葉です。
 15節「ルツがしっかりとつかんだ肩掛けの中に大麦を六杯量ってルツに背負わせると、ボアズは町へ戻って行った。」かつて、手ぶらでモアブから帰って来たナオミにとって、ボアズが詰め込んだ大麦は神様の恵みです。ルツが背負う大麦は、ボアズが一切を引き受ける決断を表す、ボアズのナオミへの証の言葉です。「なり行きがはっきりするまでじっとしていなさい」と、ナオミは今後を神様に委ねます。ナオミの神様への証の言葉です。
 彼らは神様のご計画と信じて歩む者たちです。ご計画を実行する原動力は信仰です。そして神様は、それをそれぞれの人生の中である人には“時”をもって、ある人には“出会い”をもって、また、ある人には“失うこと”をもって迫られます。今あなたに神様が迫っているなら、神様のお言葉を恐れず実行してみてください。今は私たちには分からなくても、神様のご計画は進んでいるのです。その舞台として私たちにも日常が備えられています。その日常に私たちは信仰者として生かされています。私たちはそれぞれの日常の中で、神様のご計画を証する者として、神様の豊な恵みの証人となりましょう。
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贖いの落穂

ルツ記2章17~23節

澤田 武師

主題聖句 「ナオミは嫁に言った。『どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人を祝福してくださるように。』」 ルツ記2章20節
 聖書は貧しい者や寡婦たちの生活を支えるために、“落穂を拾う権利”を認
めています。(レビ23:22他)そして富める者に対して、収穫の時には、畑の隅まで刈り尽くさないこと、集められずにこぼれた落穂は必ずそのまま残すようにと命じられています。(レビ19:9他)
 “落穂拾い”は命の糧を守るための律法で、「主はあなたを祝福される」と神様が備えられ、神様が養ってくださるための掟であると言えます。そこが現在の人が支える社会福祉の考え方とは異なる点です。
 ナオミとルツのベツレヘムでの生活は、他人の落穂を拾わせてもらう厚意によってのみ支えられています。ルツは必要に迫られて、落穂を拾いに出掛けて行きますが、頼れる者はここにはいません。送り出したナオミも不安であったでしょう。
 既にルツの行動には、神様の備えが示されていました。17節「ルツは…日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めた。…取れた大麦は一エファほどにもなった。」1エファは約23リットル。一人の女性が落穂拾いをして集められる量ではありません。ルツはボアズの畑に導かれ、そこで落穂拾いの範囲を超えた、特別な待遇を与えられます。神様はボアズを通して、彼女たちに命を与えます。
 ナオミはルツが落穂拾いで拾ってきた大量の麦と、食べきれずに持って帰ってきた炒り麦を目の前にして、戸惑います。
 そしてこの恵みが、ボアズの計らいと知った時、目の前の落穂は、自分たちに命を与えただけでなく、神様が落穂として拾い集めてくださったことをナオミは知りました。ボアズの背後に居られて働いてくださる神様の御手が、落穂を備えてくださったと、神様が落ち穂のような私を顧みてくださったと、ナオミの信仰をも回復させました。
 神様は生活を支え、そして用いてくださる。私たちも神様が御手をもって贖い拾われた落穂です。神様が用いてくださるために。この日常を歩みましょう。
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マラと呼んでください

ルツ記1章16~22節

澤田 武師

主題聖句 「ナオミは言った。『どうか、ナオミなどとは呼ばないで、マラと呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。』」 ルツ記1章20節
 ルツ記は「士師が世を治めていたころ」、イスラエルが王政に移行する前、不安定な時代の日常の出来事を、ナオミの視線を通して描く物語です。
 飢饉が終わった知らせを聞いたナオミはベツレヘムに帰ることを決意します。そして、モアブでめとった二人の嫁にそれぞれの実家に帰ることを勧めます。嫁のオルパは故郷へと帰りましたが、もう一人の嫁ルツは最後までナオミと一緒に生活することを望み、ベツレヘムに同行することを選びました。ナオミとの生活は、ルツに信仰者としての生き方を教えました。
 彼女たちを出迎えたベツレヘムの町の女たちは「ナオミさんではありませんか」と戸惑いながらも彼女たちの帰国を喜びます。しかし、ナオミは「マラと呼んでください。全能者がわたしをひどい目にあわせたのです。」と、ナオミ(快い)と呼ばれることを否定し、自分の名を恨みます。
 神様のご計画が前進する舞台として、彼女たちのベツレヘムへの帰国は備えられました。神様は「大麦の刈り入れの始まるころ」と、ここでの生活の糧を与える計画を既に示されています。しかし今、この神様のご計画のすべては、ナオミとルツには到底解るはずはありませんでした。
 ナオミとルツが失意の中で見上げた空は、その1150年後に羊飼いたちも見上げた夜空です。そして羊飼いたちは聞きました。「いと高き所に栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」救い主誕生の知らせを信じて、彼らはベツレヘムの町にイエス様を探しに行きます。
 あなたの信仰生活は、万事好都合の快いナオミの生活ですか。それとも、行き詰まりを覚え、苦難のマラの生活ですか。苦悩と思えるあなたの人生の中に、既に神様の秘められたご計画は進んでいます。
 彼女たちの苦難の根底には神様の備えと導きがあり、ナオミとルツの人生も神様の壮大なご計画に組みこまれていることが、ルツ記を読む者には示されます。それはあなたの人生の中でも起こる神様の御業です。探してみてください。
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