幸い-平和を実現する人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」 マタイによる福音書5章9節
 「平和を実現する人々」と訳されているギリシア語は「エイレーノポイオイ」という単語です。これはイエス様が最初にお使いになった言葉ではありません。既にこう呼ばれていた人たちが存在していたのです。
 聖書以外でのこの呼び名は、当時の権力者を表し、実力をもって世を支配する者の呼び名であったようです。力をもって世を治め、争いを収める人を民衆は求めました。それを実現できるのはローマ皇帝であり、皇帝は民衆に「平和を実現する人」と呼ぶようにと要求したそうです。力ある者こそが「神の子」であると民衆も思っていました。
 イエス様はあえて、真の平和、神様の平和をはっきりと示されるために、「平和を実現する人々は、幸いである」と呼びかけられたのではないでしょうか。
 普段、私たちは日常の「平和」な生活をあまり意識しません。今、世界は第二次世界大戦後で最も世界戦争になる危機が近づいていると言われています。日常は突然変わり、失われるものです。ウクライナでの戦争は一年を過ぎ、既にウクライナにもロシアにも、そして世界にも戦争以前の「日常」は失われています。人の正義が、「偽りの平和」を作り出そうとしています。ここに至って初めて、私たちは真の「神様の平和」があったことに気づきます。
 信仰者とは、イエス様が語られ、十字架によって示された「平和」に気づく人であると思います。神様に生かされていると確信した時、世界を見る目は変わります。日常の中にイエス様の十字架が立ち続けていることを知ります。十字架から神様の「平和」を知ります。イエス様は十字架に掛かられました。十字架は、誰もが囚われる、敵意、偽証、憎悪、反逆、妬みなど、諸々の悪意とは反対の意味を表しています。それは、自己犠牲であり、赦し、神様の愛そのものです。十字架こそが真の「神様の平和」を世界に示しました。
 世界平和は大切です。それと同じくらい家庭の平和、家族の平安は大切です。心の平和から、世界へ。平和は繋がっています。神様の御心に従う時、十字架による「平和」を発見する時、「神の子と呼ばれる人」が誕生します。
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高いところからの力

ルカによる福音書24章36~49節

澤田直子師

主題聖句 『わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。』 ルカによる福音書24章49節
 イースターの日の夜遅くの出来事です。この時イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と言われます。しかし弟子たちは、亡霊と思って恐れます。彼らはその時まさに、イエス様は本当に復活されたと話し合っていたのに。エマオの話でもそうですが、わたしたちは自分の知識常識に囚われて、事実を受け入れられない愚かさを持っています。
 イエス様は、弟子たちの愚かさにあきれもせず、叱りもせず、手足を見せ、触らせ、魚を食べて見せます。何と忍耐強い、憐み深いお方であることかと思います。イエス様は、人間の知恵の浅いこと、信仰の薄いことをよくよく知っておられました。
 しかしこの後は、その人間に福音宣教を委ねて、御自分は天に帰り、神の右の座に着くことが定められています。いつまでも一緒にいることはできないのです。それで、福音を理解する助けとして「モーセの律法と預言者の書と詩編」と旧約聖書を示されます。ここに神の救いが証しされていることを教えてくださいます。
 イエス様は公生涯を始められる時「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と言われました。福音とは名詞ではなく行動です。47節の「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」というのが、福音の意味するところです。ここには一切の差別がありません。
 イエス様は「父が約束されたものをあなたがたに送る」と言われました。弟子たちは時が満ちるのを待たなければなりません。わたしたちが知っているように、ペンテコステの日に聖霊が降り、弟子たちは主の十字架と復活を自分のものとして理解し、事実の証人となりました。その時、福音は全ての人に届く言葉となりました。わたしたちも、高い所からの力を求め、主の復活の喜びを自分の事として語る者となりましょう。
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心は燃えていた

ルカによる福音書24章28~35節

澤田直子師

主題聖句 『二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」と語り合った。』 ルカによる福音書24章32節
 エマオに向かう二人の弟子に、復活の日の夕方に起こった出来事です。この二人は、自分の生活に留まりながらイエス様の教えを請うた弟子たちです。
 60スタディオンは約11キロ、大人の足なら3時間弱を歩いている時、イエス様が二人に追いついて一緒に歩かれたのに、そうとは分かりませんでした。イエス様の十字架のことを話し合っていたのに。わたしたちの目は暗く、心は頑なで、自分の知識・常識に囚われて事実が見えないということが起こり得ます。それでも主は共に歩いてくださいます。
 エマオに宿をとった二人は、イエス様を引き留めます。分からないながら、離れがたいのです。福音は真理であるがゆえに、わたしたちの心を捉えます。使徒言行録8章でも、エチオピアの高官が「分からない」と言いながら馬車の中でイザヤ書を読んでいる、という場面があります。
 食卓に着いた二人の前でイエス様がパンを割いた時、ようやく二人は気づきます。何度も見て来たお姿、何度も聞いた祈りの声、知らずに食卓の主人役を頼んだその人は、紛れもなく、本当の主人だったのです。そのとたん、そのお姿は消えてしまいます。
 二人の思いが、自分の経験と知識に凝り固まっていた時には、目に見えるイエス様のお姿が必要でした。しかし二人の目が開け、本当の主が誰かを見出した後には、もう見える姿は必要なくなったのです。二人の信仰はイエス様と共によみがえりました。彼らは時を移さず夜の道を恐れず、エルサレムまで11キロの道のりを帰ります。
 復活の日から後、様々なところで、様々な人にイエス様は現れ、それぞれに必要な言葉をかけてくださいました。一人一人が復活の主に出会い、悲しみや苦しみから解放され、神の御業を信じ、遣わされる者に変えられました。主に祈り、主に求め、心を燃え立たせて、主と共に歩んで行きましょう。
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私は主を見ました

ヨハネによる福音書20章11~18節

澤田 武師

主題聖句 「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」 ヨハネによる福音書20章18節
 週の初めの日、墓の入口を塞いだ石が取り去られていた現実に、マグダラのマリアは戸惑います。そして、急いでペトロとヨハネに『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません』と伝えます。ペトロとヨハネは墓の中に亜麻布が丸めて置いてあるのを見ますが、彼らはそのまま家に帰ってしまいます。独り残されたマリアには何が起こっているのか全く理解できません。彼女は墓の中にイエス様を一生懸命見つけようとしたのですが、その目は完全に塞がれていました。
 天使たちは「なぜ泣いているのか。」と、また、園丁と思った人は「誰を捜しているのか」とマリアに問います。「どこに置いたのかを教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」マリアの本心、訴え、嘆きの言葉です。
 何故、マリアは天使に驚かなかったのか、何故、最初はイエス様だと気づかなかったのか。聖書には詳細は記されていません。イエス様を見失った悲しみは、マリアの目を塞いでしまうほど深く、重大なものだったので、光り輝く天使もイエス様も、見えていなかったのではないでしょうか。
 マリアは聞き覚えのある声で「マリア」と呼びかけられます。マリアは「ラボニ」と応答します。その声の主こそマリアが求めていたイエス様でした。名前を呼び合っていた日常が戻ってきました。マリアの嘆きの言葉は、イエス様の復活を事実として受け止めたこの時、応答の祈りの言葉へと変えられてゆきました。
 イエス様の復活を信じることこそ、キリスト教の本質です。それはキリスト教信仰に生涯をゆだねることです。復活のイエス様を信じるとき、いかなる悲しみや不安絶望の中にあっても、イエス様は私を覚えていてくださいます。名前を呼んで永遠の命を見せてくださいます。イエス様と私との関係を、はっきりと示してくださるお方です。
 マリアは弟子たちの所へ行き、「私は主を見ました」と告白しました。復活されたイエス様を信じてください。イエス様が呼びかけておられます。
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御手にゆだねます

ルカによる福音書23章44~49節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。』こう言って息を引き取られた。」 ルカによる福音書23章46節
 この日の午前9時、イエス様と二人の犯罪人がゴルゴダの丘で十字架に着けられました。やがて、昼の12時ごろ、全地が暗くなり、それが3時まで続きました。暗闇の中で十字架刑は続いています。共観福音書では神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたことが記されます。マタイは「地震が起こり、岩が裂け」と記します。この世から光が消え、地が裂け、神殿の垂れ幕が裂ける。イエス様の死は、この地上の全ての物を動かしました。留まっていることはできません。ここからまた新しい使命が与えられる時です。ここに、神様の摂理が進んでいく様子が現われています。午後3時、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」イエス様の大声が暗闇に響きます。
 この叫びは、本来はユダヤの母親が子どもに教える最初の祈りであって、詩編31編6節の御言葉です。それは暗闇を怖がらずに眠りにつくための祈りでした。今、誰にでも聞こえる大声でイエス様は叫ばれます。それは私たちの罪の暗闇を滅ぼして、新しい始まりを信じる叫びでした。
 すぐそばで十字架刑を見守っていた百人隊長はイエス様の姿を見、その言葉を聞いて「本当に、この人は正しい人だった」と信仰を告白します。罪のない人を死なせてしまった罪の告白でもあり、神を神と信じて賛美する、新しい始まりでもありました。
 本日から受難週が始まります。主の十字架に、興味本位で集まった人々、仕事の一つとして十字架刑の最初から最後まで側に立った兵士たち。そして遠くに立ちすくむ女性、逃げ去って隠れた弟子たち。私たちは、ゴルゴタのどこにいて、何を見るでしょうか。聖書には、群衆が胸を打ちながら帰って行ったことが記されます。イエス様の十字架の意味を理解まではできなくても、心を揺さぶられた人々が確かにいたのです。
 私たちが主の復活を信じていることはまことに幸いです。主の復活を待ち望みましょう。
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