神は共におられる

マタイによる福音書1章18~23節

澤田 武師

主題聖句 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」 マタイによる福音書1章23節
 「母マリアはヨセフと婚約していたが、2人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」とマタイは、イエス様がマリアの胎に宿られた次第を記しています。ユダヤでは婚約中のある期間、それぞれの親元に生活をしていても結婚しているとみなされます。その時マリアの妊娠が分かりました。この事実の前に「夫ヨセフ」の苦悩は始まります。
 ヨセフは「正しい人」として生きてきました。「正しい」という言葉には憐み」という意味もあります。身重のマリアを妻として迎え入れることは、ユダヤの結婚の慣習を犯した者として、軽蔑され社会から相手にされなくなる可能性もあります。だからヨセフは恐ろしいのです。ヨセフの憐みは、マリアのことを表ざたにせず「ひそかに」縁を切ることです。マリアへの精一杯の愛からの決心だったのでしょう。人間ヨセフの愛の限界が見えます。
 「ダビデの子ヨセフ」と夢の中で主の天使はヨセフに呼びかけます。「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」そして、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は「神は我々と共に居られる」という意味である。」すべての事は聖霊の働きによるもの、神様がこの世に介入されたことを現しています。それは人間の心配や思案を越えた、圧倒的な恵みの力に他なりません。その前に、ヨセフの正しさや、憐みは無用のものとなります。
 ヨセフは神様の愛を受け入れ、マリアを妻として受け入れます。ヨセフが全てを神様の愛に委ねた時に、イエス様の十字架の贖いによるすべての人の罪からの救いの道が開かれたのです。
 クリスマスはある日突然に、ヨセフとマリアに与えられたように見えますが、それは神様がイエ様の十字架への道を示された最初の出来事として、彼らに託された使命であったと言えます。ヨセフこそ「神は我々と共におられる」お言葉を信じ、生涯をかけてクリスマスを証し続けた人物です。
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