マリア、恐れるな

ルカによる福音書1章26~38節

澤田 武師

主題聖句 「すると、天使は言った。『マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。』」 ルカによる福音書1章30節
 神様が人となり、幼子イエスとしてお生まれになる。人類を罪から救う神様のご計画が成就するためには、クリスマスは唯一にして絶対に必要な時でした。私たちにはクリスマスの出来事、その全てを理解することは到底できません。それは神様の御心によって備えられた出来事だからです。
 実際にクリスマスを担った者たちは、人知を超えた神様の摂理に戸惑い、驚き、悩み苦しみます。それでも精一杯、自分の「恐れ」を超えて御心に応答しようとします。ルカは、そんな彼らの姿をクリスマスの一連の出来事として福音書に記しています。
 天使はマリアに神様の子の母になることを告げます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」天使の言葉は、マリアとヨセフの将来を大きく変えました。やがて夫婦となる喜びは、ユダヤ社会の日常を生きて行くことへの「恐れ」となりました。自分の思いではどうしても理解できません。受け入れることができません。ここにマリアの「恐れ」があります。
 「恐れることはない。」神様の働きを担う者たちに必ず与えられる、神様の約束です。神様はあなたと共に生きてくださるという恵みを伝えています。
 後、母となったマリアは、その生涯を通してイエス様と一緒に生きました。エルサレムでの過越しの祭りの出来事、伝道者としてのイエス様の歩み、十字架刑の罪人(ざいにん)なった我が子の姿。母マリアほど、イエス様の苦難と一緒に生きた人物は他にはいないでしょう。
 「恐れる」ことはない。マリアに「すべてを心に納め」る力を与えた御言葉です。「この身になりますように」マリアは神様の約束を生涯にわたって証し続けて行ったのです。
 ハッキリ言えることがあります。クリスマスを担った者たちの内にはそれぞれ「恐れ」がありました。しかし神様を信じて従おうと決心した時、恐れは神様の恵みへと変えられました。クリスマスを待ち望みましょう。
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恵みのあふれる家

詩編65編

澤田直子師

主題聖句 『恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって わたしたちが満ち足りますように。』  詩編65編5節b
 詩編65編は、ユダヤの三大祭りの一つ「仮庵祭」で朗誦されたと言われます。豊かな収穫は神に祝福されている証でした。3つの祈りが記されます。2~5節は、神の憐れみによって罪赦される喜びです。6~9節は神の偉大さを賛美する祈りです。10~14節は、神の祝福の豊かさへの感謝です。
 この詩に描かれる豊かさは、神の家・神の庭のものであり、わたしたちの所有物ではありません。信仰者は、神と子羊の玉座から流れ出る豊かな水を受けて、それがどこから来るのかを知っていますが、その庭に行くことはできません。時が満ちていないからです。
 この世で苦難や試練に遭う時、わたしたちの自己中心の心は、神様なぜですか、と問いたくなります。神様が愛の神なら、なぜわたしには、わたしの家には、わたしの教会には、恵みが溢れていないのか。おかしいではないか、何が悪いのか、誰のせいなのか、と言いたくなる。
 聖書には、神は高ぶる者を引き下げ、へりくだる者を高く上げる、と繰り返し書かれています。これは真実です。自分の力が及ばない苦難の中で、なぜですか、と問いながらも、自分の内側に「なぜ」の答えがあるのかもしれない、と恐れをいだく時、たとえそうであっても、神は砕かれた魂を受け入れてくださるお方、罪びとを招き食卓を共にしてくださるお方です。
 わたしたちは、その約束を知っています。そこから溢れて流れてくる清らかな水が、わたしたちに届き、渇きを癒して、神の家がどんなに豊かで明るいところかを教えてくれます。わたしたち、という、小さく欠けのある収穫物を、神様は「聖なる生ける捧げもの」として喜んで受けてくださいます。
 コヘレトの言葉3:11「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与える。」この地上でも神の恵みを見る目が養われ、喜び感謝する心が開かれますように。
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弱さの中に現れる

マタイによる福音書18章1~5節

澤田直子師

主題聖句 「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 マタイによる福音書18章5節
 子供祝福式のある礼拝です。マタイなら19章13節がよく読まれますが、ここでは、その少し前のイエス様のお言葉を読んでいきます。ここで、弟子たちが気にしているのは「誰が一番偉いか」ということです。弟子たちの思いは、本能的な、いかにも人間らしいものです。
 イエス様は、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われました。天の国に入るには子供の素直さ、無邪気さが必要だと考える人もいます。しかしこの世を生きるわたしたちは、あまりにも素直で無邪気だと、容易に騙されるおそれがあります。
 また、当時のユダヤ社会では子供の価値が低かったので、神の前に身を低くすることが大切だと言う人もいます。しかし、教会に集う方々のほとんどは、自分を大した人間だ、ひとかどの人間だとは思っていないのではないでしょうか。だからといって、いちいち「いえいえ、わたしなど…」と言っていたら、物事が進まなくてどうにもなりません。
 子供は、謙遜にならざるを得ません。できない、知らないというのが子供の姿です。子供が成長するというのは、日々、自分の足りなさを知り、それを埋めようとする姿に他なりません。また子供は、その足りなさのゆえに、誰かを頼らざるを得ません。教えられ、見守られ、がんばりを認めてもらわなければ、生きて行けません。そして、頼る相手を信頼しなければなりません。わたしたちは、誰かを信頼する時、信頼に足る相手かどうかを無意識に品定めしますが、子供にはそういう知恵も余裕もありません。信頼しなければ生きられないから信頼するのです。
 イエス様が教えようとしておられる「子供のように」とは、神の御前に足りない不十分な者であることを知り、それゆえに教えを求め、養いを求め、そして、神の何たるかを理解できないままに意志を持って信頼する姿です。神様の御手の中では「子供のように」弱いことさえも、未来への希望になるのです。感謝して祝福の祈りに加わりましょう。
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永遠を想う

コリントの信徒への手紙二4章16~18節

澤田 武師

主題聖句 『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」  コリントの信徒への手紙二4章18節
 私たちが生きているこの世界は見える物質で覆われています。それはつまり、過ぎ去るものがこの世界を支配しているということです。私たちの肉体も物質ですから、私たちの「外なる人」も、衰えてゆきやがて死を迎えます。
 キリスト教では、この、人の死をも神様に委ねます。神様がお創りになったこの世界の被造物は全て、その働きに終わりがある有限な存在です。
 しかし聖書は、人の死は「外なる人」の死ですべてが終わるのではない、と教えます。「命」を人の目では見ることはできませんが、神様は人の死を通して、人の命とは何かをはっきりと示されます。わたしたちに永遠の命を信じる心「内なる人」を与えてくださっています。
 私たちの「内なる人」は、永遠の神様を求めます。『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
 キリスト教信仰の最も重要な教義である「復活の永遠の命に共に生きる。」この信仰をよく表したのが「聖徒の日」記念礼拝ではないかと思います。私たちはこの世の時間に生きています。このことをはっきりと自覚するのは、人が死ぬ時ではないでしょうか。私たちは誰でも必ず天に帰る時がきます。また天に帰る人々を見送る者となる時があります。その時がいつ来るのかは神様のみがご存じです。
 かつて共に礼拝に集うことが許され方々、そして今は「聖徒」となられた方々と、今日再び共に礼拝をお捧げします。地上に生かされている私たちと、神様の御許に生かされている「聖徒」の方々と、席のある所は違っても、共に神様を礼拝する者としての歩みは変わりません。そのことを信じ感謝して私たちは共に礼拝を守っていきます。教会が世にある限り、聖徒の方々は、信仰者として永遠に存在しておられます。人の死は永遠を想う心を私たちに与えます。思いを巡らし、感謝をもって神様に委ねてゆきましょう。
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