弱さの中に現れる

マタイによる福音書18章1~5節

澤田直子師

主題聖句 「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 マタイによる福音書18章5節
 子供祝福式のある礼拝です。マタイなら19章13節がよく読まれますが、ここでは、その少し前のイエス様のお言葉を読んでいきます。ここで、弟子たちが気にしているのは「誰が一番偉いか」ということです。弟子たちの思いは、本能的な、いかにも人間らしいものです。
 イエス様は、「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われました。天の国に入るには子供の素直さ、無邪気さが必要だと考える人もいます。しかしこの世を生きるわたしたちは、あまりにも素直で無邪気だと、容易に騙されるおそれがあります。
 また、当時のユダヤ社会では子供の価値が低かったので、神の前に身を低くすることが大切だと言う人もいます。しかし、教会に集う方々のほとんどは、自分を大した人間だ、ひとかどの人間だとは思っていないのではないでしょうか。だからといって、いちいち「いえいえ、わたしなど…」と言っていたら、物事が進まなくてどうにもなりません。
 子供は、謙遜にならざるを得ません。できない、知らないというのが子供の姿です。子供が成長するというのは、日々、自分の足りなさを知り、それを埋めようとする姿に他なりません。また子供は、その足りなさのゆえに、誰かを頼らざるを得ません。教えられ、見守られ、がんばりを認めてもらわなければ、生きて行けません。そして、頼る相手を信頼しなければなりません。わたしたちは、誰かを信頼する時、信頼に足る相手かどうかを無意識に品定めしますが、子供にはそういう知恵も余裕もありません。信頼しなければ生きられないから信頼するのです。
 イエス様が教えようとしておられる「子供のように」とは、神の御前に足りない不十分な者であることを知り、それゆえに教えを求め、養いを求め、そして、神の何たるかを理解できないままに意志を持って信頼する姿です。神様の御手の中では「子供のように」弱いことさえも、未来への希望になるのです。感謝して祝福の祈りに加わりましょう。
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