御名をたたえる実

ヘブライ人への手紙13章7~16節

澤田 武師

主題聖句 『だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。』  ヘブライ人への手紙13章15節
 手紙の著者は信仰に生きる者のために、新たな視点を示します。7節「あなたがたに神の言葉を語った“指導者”たちのことを、思い出しなさい。」“指導者”とは、手紙の読者の身近に生きた兄姉で、読者を信仰へと導いた人々のことです。「彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰の生涯を見倣いなさい。」生涯、信仰者として歩み続けた兄姉。既に天に帰られたが、あなたがたの信仰は彼らの生きざまから必ず影響を受けている。目指すべき信仰者の姿として“思い出しなさい”そして“求めなさい”との勧めです。
 イエス様の十字架は、私たちを罪から救い出してくださった、ただ一度の出来事です。イエス様ご自身が犠牲となられて、神様との間の隔たりを取り除いてくださいました。「だから」と著者は応答の歩みを選び取ることを勧めます。
 「だから、宿営の外へ出て、みもとに赴こうではありませんか。」イエス様が歩まれた道、居られる場所、そこは辱めと苦難を経験された所です。私たちはそこでイエス様と生きることになります。十字架にかけられる強盗にさえも、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われました。
 「だから、御名をたたえる唇の実を神様に献げましょう。」礼拝での賛美は全て「イエス様を通して」神様にお献げするものです。賛美をお献げすることは、歌う私たちの内に、神様からの福音が祝福の実となって結ばれることです。
 著者はヘブライ人への手紙を通して、唯一無二のイエス様を繰り返し私たちに示します。それは「いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。」という戒めから離れないためです。あなたに信仰を伝えてくださったのはどなたですか。正しい信仰を伝えられ、信じたので、私の信仰生活は守られ、今も続いています。
 私たちも祈ります。私たちの唇が絶えずイエス様を崇め、賛美を捧げ、友を励ます言葉を語る唇でありますように。神様の豊かな祝福を語る唇でありますように。イエス様の居られる所で、御名をたたえる実を結ぶ者としてください。
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主はわたしの助け手

ヘブライ人への手紙13章1~6節

澤田直子師

主題聖句 「主はわたしの助けて。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」  ヘブライ人への手紙13章6節b
 13章は信仰者に勧められる働きについて書き始められます。1~3節は兄弟愛について、4~6節は人間の生きる世に現れる物事を通して、神と人との関係を見直すものです。
 「兄弟としていつも愛し合いなさい」聖書にはよく似た御言葉があちこちに出てきます。ローマ12:10「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。」とあります。この延長線上に「旅人をもてなす」という勧めがあります。マタイの福音書では、天の国に迎え入れられた正しい人たちに、王が「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と言われました。
 わたしたちは、罪を犯した人に裁く思いを持ちがちです。自分は正しいと思いこんで平然と他人を裁いてしまう。それは高ぶりです。牢に入れられるまでではなくとも、自分もまた人を傷つけ、良くない思いが心に沸くことを止められない、自分も捕らわれた人と同じかもしれない、という考えは、「泣く者と共に泣きなさい」という教えに応えるものとなります。また、痛み、病んでいる人のために祈る事しかできない無力な悲しみをもって、虐げられている人を思い浮かべることが求められます。
 結婚は神聖なもので、信仰者と救い主の関係に例えられます。これは平和と同じで、当事者が実現していくべきことです。金銭に限らす「執着しない」ことは、暴力を呼び込まないために心がけるべきことです。執着を愛着に変えたいものです。
 これらの求めの原点として、神はわたしたちを決して見捨てられない、という約束があります。この力強い約束を信頼した信仰者は「主はわたしの助け手、わたしは何を恐れよう」と希望を持ちます。これこそが「神に喜ばれる奉仕」の土台となるものです。
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畏れ敬い、仕えよう

ヘブライ人への手紙12章25~29節

澤田直子師

主題聖句 「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えて行こう。」  ヘブライ人への手紙12章28節
「地上で神の御旨を告げる人」とは、モーセのような伝達者です。対して「天から御旨を告げる人」はイエス様を表し、イエス様ご自身が神の声そのものであることを示します。律法を与えた神様は完全なお方ですが、運用する人間の方は全く不完全でした。律法の核となる二つの重要な掟、「全てを尽くして神を愛する」と「隣人を自分のように愛する」これをイエス様が完全に遂行したことによって、律法は完全な力を持つ福音へと変えられました。この真理を拒む者には、神の裁きは厳しいものとなります。
律法が与えられた時、シナイ山の頂は全山煙に包まれ山全体が激しく震えました。律法でさえ地が震えるなら、福音はどうでしょうか。「地だけではなく天をも揺り動かそう」とはハガイ書の預言の言葉です。紀元前520年の4か月間という短い期間の預言書で、17年間中断していたエルサレム神殿の再建について書かれています。ハガイはイエス様を知りませんが、目に見える神殿を建て上げることは、目に見えない霊的な心の内の主の神殿を建てることだと信じました。パウロはコリントⅡの17章に、「わたしたちは生ける神の神殿なのです。」と書いています。
揺り動かされない御国は、信仰者に既に用意されています。イエス様は「あなたがたのために場所を用意しに行く。用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える」と約束されました。
28節の「神に喜ばれるように仕えて行こう」仕えるは奉仕ではなく礼拝を表します。礼拝は信仰者が共に捧げるものですが、同時に神様と一対一で対峙する場でもあります。「焼き尽くす火」には二つの意味が含まれます。一つは、第二の死、神との断絶。もう一つは、神の火によっていらないものが焼き尽くされ、信仰の不純物が取り去られる。信仰者にとっては、神の裁きさえもが希望になるのです。揺り動かされないものを見上げましょう。
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恐れなく近づこう

ヘブライ人への手紙12章14~24節

澤田 武師

主題聖句 『すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません』 ヘブライ人への手紙12章14節
 ローマの支配下では様々な神々が作り出されました。その上、人間である皇帝を、唯一の“主”、神と告白させられました。この手紙はキリスト教迫害から逃れるために、信仰から離れようとしている人たちを、再び信仰者として歩み続けられるよう、励ましを与えた手紙と言われています。手紙の著者は、彼らの苦しみを知っています。そして、共に生きたいと願っています。
 14節「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」周りに迎合すれば、皇帝を主と告白すれば、迫害を受けることはありません。しかし、それは偽りであり、表面上の平安でしかないことを信仰者は知っています。
 今世界情勢は、神様からの祝福「すべての人との平和」「聖なる生活を求めること」を、別のものと取り換えようとしています。それは人類が作り出した偶像的なもの、人と人の関係をむしろ壊してしまう権威や地位や正義や勝利です。凄い勢いで世界が変わろうとしています。世にあって、信仰者は絶えず「主を見ること」を求められ、信仰者もまたイエス様を信じることが一番重要であると知っています。今「俗悪な者」が支配を目論む世界に生かされている者にとっても、励ましの言葉として響きます。
 24節「新しい契約の仲介者イエス、そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」イエス様がカルバリ山で流された血潮は、恵みの座にまで流れ注がれています。聖所の隔ての幕が裂かれ、誰でも神様に近づくことが許されたからです。イエス様は言われました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」こうしてイエス様は全ての者を招いてくださいます。私たちも祈ります。私たちの萎えた手と弱くなった膝を伸ばしてださい。どこまでも、自分の足で信仰の道を歩むことができますように。私たちは間違いなくイエス様に近づいていくのです。
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私たちは鍛えられた

ヘブライ人への手紙12章7~13節

澤田 武師

主題聖句 『およそ鍛錬とういうものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。』  ヘブライ人への手紙12章11節
 手紙の著者は、既にたくさんの信仰者が迫害に遭って苦難を経験した、と記しています。神様は愛する者たちに試練を与え、信仰を成長させてくださる。信仰に痛みが伴う、苦難が伴う。この時が「神様の鍛錬」であると記しています。「鍛錬」とはギリシア語の「バイデイア」という単語を訳したものです。この言葉は元々子どもを表す「バイス」という単語から派生していて、「子どもを教育する。」という意味があります。信仰者を厳しく教育し成長させようとする、神様の御心が見えてきます。
 イエス様は「葡萄の木の例え」を用いて、信仰者がさらに豊かな実を結ぶ枝となるために、父なる神様が不要な枝を剪定されることを、弟子たちに話されました。また、パウロは投獄と苦難が待っているエルサレムへと向かう足を止めませんでした。イエス様が十字架に向かわれたように、彼もこの世に「義と平和に満ちた実を結ばせる」ために「鍛錬」の道を行きます。
 私たちも良い実を結びたいと思いながら、また失敗してしまう自分に気づきます。試練を受け入れられずに、神様はどこに居られるのか、神様は何でこんなことをされるのか、と呟いてしまいます。
 祈りましょう。今はそう思えなくとも、全ての事は神様のみ旨によって起こっている。神様の最善が私に啓示されています。すべてのことは「神様が鍛えてくださっている」と思う練習をすれば、信仰は深く強くなる。神様は日々私の信仰をも手入れをしてくださっています。
 私たちも「義という平和に満ちた実を結ぶ」(11節)生活に変えられます。神様は全ての信仰者と平和に満ちた関係を続けたいと、私たちに近寄られ御手を伸ばしてくださいます。神様は、私の弱さを全て知っていてくださいます。だから、今の鍛錬の先にある真の信仰者とならせてくださいます。それは、私たちが既に神の子であり、霊の父に鍛えられる価値のある子だからです。
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