主よ、来てください

ヨハネの黙示録22章16~21節

澤田直子師

主題聖句 「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。  ヨハネの黙示録22章20節bc
 6月第4週は特別な礼拝になります。1942年6月26日早朝、ホーリネス系教会の牧師が一斉に検挙され、その後、教会は解散を命じられました。この弾圧には、四重の福音の「再臨」が大きく関係しました。イエス・キリストが再び世に来た時、天皇はキリストより上か下か、と問われたのです。
 再臨は誰にとっても経験のない最初で最後のことですが、聖書には再臨の全貌ではなくとも、一部分を幻として見せられた預言者が出てきます。パウロもコリントの信徒への手紙一の13章では『今は一部しか知らなくとも、そのときには・・・・はっきり知るようになる』と希望を持っています。わたしたちは、天国を死んだら行く所と考えているかもしれませんが、聖書によれば、天の国がわたしたちのところに来るのです。黙示録
21章には新しい天と新しい地の様子が描かれます。その美しさはとても言葉にできません。美しさもさることながら、そこには命の木があり、毎月実を実らせている。これは創世記のエデンの園にあった命の木でしょう。
 再臨の時には、創世記1:31「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。」この故郷がわたしたちのところに来て、わたしたちはそこに帰って行くのです。
 それはわたしたちの努力でできることではありませんが、イエス様の十字架を見上げ、復活の命をいただく時、不可能が可能になるのです。
 新しい天と新しい地には神殿がありません。必要ないのです。いつでも神様のお顔を見上げられるよう、玉座だけがある、何という希望でしょう!
新しい天と地を待ち望むただ一つの条件は、イエス様の十字架の贖いにわが身を明け渡すことです。わたしの罪は十字架の上で死に、わたしの命はイエス様と共に歩む復活の命に変えられました。今やわたしたちは、世にあっても神の玉座を仰ぎ見ることができます。聖書の最後の言葉「主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように」アーメン!
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あなたをいやす主

出エジプト記15章22~27節

澤田直子師

主題聖句 「わたしはあなたをいやす主である。」 出エジプト記15章26節c
 出エジプト記では前半の20章までが、ヘブライ人がエジプトを出て行く物語で、残りは律法の規定が記されています。15章は、葦の海を渡る奇跡の三日後に、水が苦くて飲めないと言って民がモーセを責める場面です。
 モーセが神に祈って示された通りに、一本の木を投げ込むと、水は飲むに適したものに変えられました。民は、わずか三日前にはエジプトの軍隊から逃れて海を渡るという奇跡を経験しているのに、モーセを責め、モーセに助けを求めました。これが、人間の弱さ・愚かさです。見えないものを信じることができず、見えるものに頼りたくなるのです。
 一方モーセは、民に責められて、神に祈るしかありません。人は誰もモーセを助けてくれず、責めるばかりです。この時から荒れ野の40年をずっと、不足がある度、民はモーセに詰め寄り、モーセは神に祈り、神は憐れんで助けてくださる、というパターンが繰り返されます。
 神はモーセに「主の声に必ず聞き従い…」(26節)という掟と法を与え、そうすればエジプトに下した病を下さない、と約束されました。「病」は「災い」とも訳せる言葉ですから、エジプトに神が下した10の災いを示していると考えられます。特に、初子の災い、ファラオの子も奴隷の子も、命を失った過越しの夜の災いです。信仰者も、罪の奴隷から解放されるために初子を失いました。しかし失ったのは、わたしたちではなく神様でした。独り子イエス様の命が全き犠牲、神の子羊として捧げられたのです。
 そして、神は「わたしはあなたをいやす」と言われます。「癒し」という言葉から、わたしたちは、病や痛みが取り去られて元の健やかな体と心に戻る姿を思い浮かべるでしょう。それは素晴らしいことですけれども、命あるものは全て、いずれ死を迎えるのですから、神の癒しは今の体や心のことよりも、もっと深いところを指し示していると思います。不完全で傷の多い、とうてい捧げ物にはなり得ないわたしを、神様はその独り子の命と引き換えでまで救ってくださいました。ここに、真の「神癒」があります。
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聖化の恵み

レビ記19章1~8節

澤田 武師

主題聖句 「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」 レビ記19章2節b
 「カナンの地」は無秩序な荒廃した異教世界でした。神様はこの世界をイスラエルの民に与えると約束されました。選ばれた者が、神様の秩序を回復させるために、この異教の地で「聖なる者」として生きることを命じます。
 カナン人の神は人が作った偶像として存在しました。偶像礼拝の恐ろしさは、自らが形作った神に、自らが囚われてしまうことです。朽ちてしまう、虚しい物を神として崇めることです。虚しい物体を崇めている限り、唯一絶対のまことの神様を知ることはできません。
 聖書は、神様は「聖なる方」であると記します。「聖なる方」とは、私たちとは全く異なるお方、区別された方を示し、神様の絶対性、超越性を表す言葉です。そして神様は私たちにも「聖なる者」となることを求めておられます。
 「…神はわたしたちを愛して、…聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エフェソ1:4)神様は私たちが「聖なる者」となるために、独り子イエス様を「完全な和解の献げ物」として十字架につけられ、イエス様を信じる者すべてに「聖化の恵み」を示されました。
 「聖化」は神様の御業です。私たちがいくら努力しても、自分自身は変えられません。しかし神様は、無償でこの「恵み」を与えてくださいました。
 「和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげなさい。」「聖化の恵みに生きる」自分の足りなさを受け入れた時、誰よりも私自身が神様の恵みを必要としていると知るのです。聖化の恵みに与る者は、高慢になったり他人を裁いたりすることができなくなります。神様が受け入れてくださる自分を喜んで捧げ続けていく、それが、「聖化の恵み」に生きるということです。そしていつしか「主と同じ姿に創り変えられて行く」のです。ホーリネス信仰はその名前が示すように、特に「聖化」を重んじる信仰です。個人個人の生活の場において、実践的に神様の「聖」を求める信仰と言えます。日々生かされて歩みましょう。
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不信仰と不義

ローマの信徒への手紙1章18~23節

澤田 武師

主題聖句 「なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。」 ローマの信徒への手紙1章19節
 聖霊が降った時の様子が、使徒言行録には“激しい風が吹いて来るような音”、が聞こえ“炎のような舌”が一人一人に留まったと記されています。それは「聖霊降臨」を“見たままに、聞いたままに”精一杯書き表そうとした言葉です。
 パウロが回心した次第も、使徒言行録に記されています。ダマスコ途上で十字架の光に照らされたパウロは、目が見えなくなりました。さらに、彼はイエス様のお声も聞きました。イエス様は、今までパウロが見ようとしなかった、自分自身の罪を、暗闇として彼に現わされました。イエス様は十字架の光から、罪に対する「神の怒り」を示されたのです。
 「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」パウロは、一人一人に神様の御心と祝福を与えるために降った聖霊を、受け入れないよう妨げる力が、罪であるといいます。神様はこの罪に向かって「怒り」を現されるのです。
 「聖霊降臨」は、多くの者の驚きと、戸惑いになりました。「あの人たちは、新しいブドウ酒に酔っているのだ」と嘲る者もいました。彼らはこの出来事を、酔っ払いの戯言として受け止めました。彼らの知恵がそう結論づけたのでしょう。時に人の知恵も、神様から私たちを引き離す罪となります。パウロは、人間は神様を知っていながら、それでも神を神と認めないところに罪があると言っています。
 神様は独り子イエス様の十字架の死「神の怒り」を自らに与えました。これによって罪からの救いの完成を示されました。神の怒りは、神様の愛の中にあることがここに示されています。
 聖霊が働くとは、神様を知りながらそれでも罪を犯し続けてしまう自分の存在に気づくことです。罪ある者として涙し、痛み苦しむ。
 しかし、神様は私たちの思いを超えて、愛を示してくださいます。自分の罪に泣く者にこそ、主イエスの御名は救いを得させる神の力となるのです。この喜びを知った者たちがここに集い、教会を立て上げています。
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