試練を知る神

ヘブライ人への手紙2章10~18節

澤田 武師

主題聖句 「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」 ヘブライ人への手紙2章18節
 私たちが生きていくことは、「試練と共に歩む」ことであると言えます。試練は人間の誰にでも訪れます。しかし神様は全てを創られ、支配され、命を吹き込まれる方です。永遠に居られる神様に試練はありません。ところがイエス様は、神と等しいお方でありながら、人間として世に来られ、肉体を持つ者たちと同じように数々の苦しみを通られ、共に試練を歩んでくださいました。
 「死」が、私たちが経験する最大の試練でしょう。愛する者の死、かけがえのない者の死、自分自身の死、できれば避けて通りたいと誰もが考えます。
 聖書が記す「死」の第一は身体の死です。しかし信仰的には、死とは身体の死だけではなく、被造物なる人間が、命の根源である神様から離れることです。ここには神様に対する人間の反逆があります。パウロは、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」(ローマ5:12)と記しています。罪による死の恐怖から、生涯奴隷の状態にある者を解放するため、イエス様はご自分の死によって罪を滅ぼし、私たちの救い主となってくださいました。
 マーガレット・F・パワーズ作「足跡」という詩があります。夢の中で、主と歩いていた砂浜、そこには今までの人生が映し出されました。一緒に歩いてくださっていた神様の足跡が消えているところがあります。作者は神様に訴えます。何故、あの苦難の時、困難な時、一緒に居てくださらなかったのか。神様は答えてくださいます。「主は、ささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。足跡がひとつだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた。』
 イエス様は、今も、私たちの試練を私たちごと背負ってくださっています。ご自身も痛みを知っておられるからこそ「試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」主にお委ねして平安に歩みましょう。
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人間とは何者なのか

ヘブライ人への手紙2章1~9節

澤田直子師

主題聖句 「ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」 ヘブライ人への手紙 2章3a節
 2節の「天使たちを通して語られた言葉」とは律法を指します。モーセがシナイ山で十戒を授けられた時、天使たちが神に仕えていたという言い伝えがユダヤ教にあったのです。その律法をはるかにしのいで、完全なものである福音にむとんちゃくであるならば、罰を逃れる術はもう一つもない、ここで言う「罰」とは神との永遠の断絶です。
 律法は神様からの命令です。多くの人が共に暮らす時に必要なルールです。また、ユダヤ人が神の選びの民として、神に守られ続けるためにも必要でした。命令違反は処罰の対象になる、これはわかりやすいことです。
 福音は命令ではありません。福音は、招きです。全ての人に届けられる神様からの招待状です。洗礼は、この招待状に「はい、わたしはまいります」と返事をすることです。招待状の封を切っていない、中身を見たが返事をどうしようか考えあぐねている、そういう人もいます。そのために教会があり、集う者たちが証をするのです。それが4節に書かれていることです。
 聖書には「人間とは何者でしょう」という問いが何度も出てきます。「救われる」ということは、神様との確固たる絆ができる、決して切れることのない関係が保証される、ということです。しかし信仰が深まるにつれ、ある疑問が生じてきます。それは「このわたしが、なぜ?」大伝道者パウロも、望んでいる善ではなく望まない悪を行っている自分を「なんと惨めな人間なのでしょう」と嘆いています。洗礼を受けたら何の苦も迷いもなく善い人になれるということはなく、むしろ葛藤が増えるかもしれません。
 ふさわしくない者をふさわしくするために、神は独り子を十字架につけて死なせました。これが、神が示される福音です。それほどまでに愛されたわたしたちは、この愛に依り頼み神の御許に留まろうとします。これが、信仰者が神に応える福音です。福音を味わい尽くし、養われて、遣わされて行きましょう。
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救い主イエス・キリスト

ヘブライ人への手紙1章5~14節

澤田直子師

主題聖句 「一方、御子に向かっては、こう言われました。『神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。」 ヘブライ人への手紙1章8節
 ヘブライ人への手紙には、旧約聖書からの引用が多くあります。紀元前300年ごろに、ギリシャ語に翻訳した旧約聖書が作られ、それによって、離散して何世代も経てもはやヘブライ語を理解しないユダヤ人も、民族のよりどころである旧約聖書を読むことができるようになりました。このことを前提として、旧約聖書を引用してイエス・キリストを証ししようとしたのです。
 何度も「天使」が出てきます。天使は救い主にはなりえない、と証明します。
偶像崇拝の地に何世代も住むうちに、天使信仰が生まれたことを伺わせます。もちろん、唯一の全知全能の神を信じているのですが、直接に神様に祈ることは、畏れ多くてとてもできない。離散の原因が不信仰にあるという負い目もあったでしょう。神様のお使いである天使に祈り、取り次いでもらおうとしたのです。わたしたちは、より身近な存在に頼りたい思いがある。人間の陥りやすい過ちの一つだと思います。
 救い主はイエス・キリストただお一人です。それはキリスト教会の基本中の基本です。わたしたちは、世を歩む中で、どこにいても、何をしていても、この基本に帰れるくせをつけておきたいのです。
 ヘブライ人への手紙では、「天使」をガブリエルのような神に仕える特別な存在とはとらえていません。その名の通りの天の使い、天から来る使いではなく、天の父の使いです。天の父のお使いをするのに、輝く衣や羽は要りません。むしろ遣わされて行く先の人々と同じ姿、同じ言葉が必要なのです。ちょうどイエス様が人間の姿となってわたしたちのところに来てくださったように。天の父は「独り子を信じる者が一人も滅びない」ことを望んでおられます。
 救い主はただお一人、イエス・キリストです。この喜びの知らせを携えて、世に遣わされて行きましょう。
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神は語られた

ヘブライ人への手紙1章1~4節

澤田 武師

主題聖句 「神は、かつて『預言』たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に『語られた』が、この終りの時代には、『御子』によって『わたしたち』に語られました。」 ヘブライ人への手紙1章1~2a節
 手紙本文中には、この手紙の著者名、執筆時代、受取人名がはっきりとわかる言葉はありません。しかし、手紙の冒頭で著者は、神様は私たちに語ってくださり、そして、私たちの信仰が神様の御言葉を聞くことから始まった、と記します。著者はこの事実を、確信をもって手紙全体の序文としました。
 かつて、神様の「語りかけ」に旧約の民は聞き従いませんでした。神様から離れて自分たちの造った神、偶像に心を向け、神様を忘れてしまいました。
 それでも、神様は変わらずに人類に「語ってくださる」お方です。それは、全ての人類の「救い」が、神様からの一方的な働きかけから始まっていることを示しています。その証しとして神様は御子イエス・キリストを送ってくださいました。それほどに私たちを愛し、私たちが生き方を変えて、永遠の命に生きる者となるように導いてくださいます。
 終わりの時代とは私たちが生きている今この時です。私たちは「御子イエス・キリストが語ってくださったお言葉」を聞きます。そして、私たちの信仰は、このお言葉を土台として建ち、造り上げられていきます。
 この手紙には、何度も試練の前に立たされ、信仰に対する喜びが薄れ、ユダヤ教に戻ろうとする誘惑に覆われている、キリスト者の姿が記されています。手紙の著者は、誘惑に揺れる者に、福音の真理をしっかりと心に留めて、押し流されないようにと励ましたかったのです。「励ましの思い」を込めて、ヘブライ人への手紙は書かれました。
 私たちにも信仰が弱る時があります。その時に励ましを与えてくれる手紙として、ヘブライ人の手紙を読んで行きましょう。
 今も、イエス様は私に語りかけてくださっています。静まって、耳と心を開いて、主のお言葉を聞きましょう。そして、私たちもサムエルのように応答しましょう。「どうぞお話ください。僕は聞いております。」
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新しい道を歩む

マタイによる福音書2章1~12節

澤田 武師

主題聖句 「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」 マタイによる福音書2章12節
 マタイは、メシア誕生を告げる「占星術の学者を導いた星の光」と、メシア誕生を知った「ヘロデ王の心の闇」とが交差した時を記します。「公現日」イエス様が異邦人に伝えられた時です。イエス様がお生まれになったという一つの事実から、クリスマスを知った者は、それぞれが自分の真実を作り出します。その真実が一人一人の行動として表わされていきます。
 神様のご計画は、ユダヤでは禁じられていた占星術でさえもキリストを示す道具として用い、学者たちを、神様に大胆に近づく者へと変えられました。
 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」学者たちの問いは、ヘロデ王には「不安」となりました。彼は聖書を調べさせます。聖書の預言は、彼に不安が現実になったと確信させました。彼の不安は、後にまったく関わりの無い者の命を奪う行動となります。彼は神様の光を見ることなく、自らの深い闇に覆われて生き続ける道を選びます。
 学者たちが持参した宝は、彼らが占いの道具をすべて売り払って得たお金でそろえた宝物である、との説があります。学者たちは、旅立つ前から、持てるすべてをイエス様にお捧げする宝物に替えて、用意したのでしょう、もう星に真理を探す生活には戻らない、救い主のお誕生を事実として確信した者の行動です。私たちが礼拝、諸集会へ集うことは、万事を整えて臨むことです。聖書が語る神様を求める時、真理はある人をその場に留まらせ、ある人は真理に力を得て困難をも乗り越えて行きます。
 「イエスは、ヘロデ王の時代に…。」と聖書は記しますが、どの時代であれ暗き時こそが私たち一人一人とイエス様との出会いの時です。イエス様を信じることによって大胆に真理を語り、罪の中に戻らない生活を日常の中に告白する。クリスマスの福音は人を大胆にさせ、真理を語らせ、新しい道を歩み始める者とします。真のクリスマスの祝福です。
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