日用の糧を与えたまえ

創世記42章1~13節

澤田 武師

主題聖句 「『聞くところでは、エジプトには穀物があるというではないか。エジプトへ下って行って穀物を買ってきなさい。そうすれば、我々は死なずに生き延びることができるではないか』と言った。」 創世記42章2節
 「裾の長い晴れ着を着ていたヨセフ」なら、兄たちは遠くからでも見分けられましたが、エジプトの司政者の衣装をまとったヨセフには気づきません。「生活の糧」を求めて、兄たちはヨセフの前にひれ伏しています。それは、以前カナンの地でヨセフが見た夢が現実となった光景です。
 ヨセフは突然兄たちを「お前たちは回し者だ」と決めつけます。ヨセフの言葉は、司政者の命令として実行されますから、これは兄たちへの死刑が宣告されたのと同じです。何故ヨセフは兄弟たちに名乗らなかったのか、それには多くの解釈がありますが、ヨセフの本当の意図は推測するしかありません。
 察するに、死を宣言された兄たちが、その時、どう無実を訴えるのか、自分たちを証しするのか。それが、ヨセフが聞きたかったことではないでしょうか。
 兄たちは、家族を持つ自分たちが「回し者」などになるはずがないと無実を訴えます。そして家族の中の「もう一人は失いました。」と語ります。兄たちは、ヨセフを「失われた者」として自分自身を納得させていたのでしょう。兄たちは自分の言葉によって忘れかけていたヨセフを思い起しました。かつて命まで奪おうとしたヨセフの存在が、再び兄たちに迫ってきます。
 ヨセフ自身も、兄たちの言葉の中に、エジプトで生きると決めた時に失ったはずの父と弟の存在を探し当てました。失われた者との思いがけぬ再会です。
 世界を襲った飢饉は、彼らが“共に生き延びるため”の、神様の摂理であったことが表されます。神様は一つの家族の再会を、世界規模の禍の中に備えられました。苦難の中にも、神様の糧は備えらえています。それは、神様の御心に適う者となるために備えられた糧です。
 イエス様は主の祈りで「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈ることを弟子たちに教えられます。私たちにも祈りの言葉として伝えられました。それは、「日用の糧」が神様から与えられていることを、私たちは忘れやすいからです。私たちが祈るたびに、日常が神様の糧で満たされていることを、神様の糧によって日常があることを、私たちは知らされ、感謝に満たされるのです。
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苦難に備えて

創世記41章47~57節

澤田直子師

主題聖句 「ヨセフが言ったとおり、七年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲ったが、エジプトには、全国どこにでも食物があった。」 創世記41章54節
 ヨセフはファラオの夢を解き、信頼を得て、行政の最高責任者に任命されました。ファラオは、ヨセフがより大きく完全な権力を得て仕事ができるように、エジプト名と、祭司の娘を妻として与えます。
 大豊作の七年の間に、ヨセフは大きな働きをしました。46節『ファラオの前をたって、エジプト全国を巡回した。』本物の権威を手にしたヨセフは、その正しい使い方を知り、実行することができました。もう少年時代のように裾の長い晴れ着を着て労働しなくても良い者であろうとはしません。権威にふさわしく神と人に仕えることを覚えたのです。
 豊作の間に生まれた二人の息子の名前に、ヨセフの思いを見ることができます。長男マナセの名の本来の意味は「持っていない」ということ、ヨセフはもはや生家には心を残さず、エジプトで生きる決意を固めたのです。その結果は次男エフライム「増やす」の名につながります。財産や権威だけでなく、何よりもエジプトの民とファラオとの信頼が増していきました。
 かつてのヨセフは、兄たちの嫉妬を知りながら、火に油を注ぐような愚かな言動をしました。その結果は苦難に次ぐ苦難の道のりとなりました。しかし41章のヨセフは、それらの苦難自体が備えとなって、賢い者に変えられています。ヨセフが考え、豊作の間に実施した政策は、理に適い、また後の飢饉の際には、この人に従っていれば間違いない、と思わせるに十分な関係性を築き上げました。
 わたしたち信仰者が、ここから学ぶべきこと、蓄えるべきものは何でしょうか?それは「神の御言葉です」と答えたいと思います。わたしたちの魂の養いを、遠いところではなく自分の生活のすぐそばに置いて、「聖書」という豊かな穀蔵をいつでも開けるよう、備えていきましょう。
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実る時、実りのない時

創世記41章25~36節

澤田直子師

主題聖句 「これは、先程ファラオに申し上げましたように、神がこれからなさろうとしていることを、ファラオにお示しになったのです。」 創世記41章28節
 無実の罪で牢に入れられたヨセフは、給仕長の夢を解き明かしますが、元の身分に戻った給仕長はヨセフのことをすっかり忘れ、2年の月日が過ぎました。その間にも神のご計画は進んでいました。二度も不思議な夢を見たファラオは心を騒がせ、夢を解き明かす知恵者を求めます。この時、給仕長がヨセフを思い出すのです。ここには神の摂理が働いています。ヨセフがファラオの前に立つためには、牢の中で給仕長の夢を解くことが必要でした。全ての出来事は必然であり、神のご計画は生きて働いています。
 ファラオから「夢の解き明かしができるそうだが」と問われたヨセフは「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです」と答えます。ヨセフはエジプトで暮らす数年の間に、自分は神に用いられる器であることを自覚していました。ヨセフの夢解きによって、7年間の大豊作に続く7年間の大飢饉に備える準備ができました。
 これはおよそ3600年前のエジプトの出来事です。しかし、わたしたちの毎日の歩みの中にも、自分の力ではどうしようもなく、何もうまく行かない日があるものです。反対に大した努力も無く全てが順調に進む日もあります。神の摂理の中で、わたしたちの力や知恵を超えて、物事が進んでいきます。
 ちょうど、今のコロナ禍はそういう時かもしれません。わたしたちの祈りは、神様の御声を聞くよりも、神様のご計画を示してほしいと願うよりも、自分の要求の言葉の方がずっと多いものです。欲張っているわけではなく、特別な大豊作でなくてもいい、普通に実る時がずっと続いてほしい、と思うものです。
 ヨセフに与えられた夢を解く知恵には、その具体的な解決策まで示されていました。ファラオとヨセフの間には信頼関係が生まれ、神から与えられた計画が実行されます。実りの時、実りのない時、どちらも神様の時です。神の摂理を信じ、神の御声を聞き、ご計画を求めていきましょう。
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神に知られている

創世記40章1~8節・14~15節

澤田 武師

主題聖句 「ヨセフは、『解き明かしは神がなさることではありませんか。どうかわたしに話してみてください』と言った。 創世記40章8節b
 もし、ヨセフに信仰が無く、神様を信じていなければ、今は絶望の時でしかありません。しかし、聖書は「神様はヨセフと共に居られた。」と、神様の摂理がここにも表されたことを記しています。
 ヨセフは「神様に罪を犯すことができなかった。」彼が命に替えても守った信仰です。信仰を貫いた結果、投獄されるという「どん底」を彼は経験します。
 時を同じくしてファラオから信頼されていた宮廷の役人、給仕役と料理役も、それぞれの過ちの故に、王の裁きが下るまでの間、ヨセフが収監されている牢獄に、留置されています。彼らとヨセフは、互いに最悪の時に最悪の場所で出会いました。この出会が神様のご計画であることを、今は誰も知るはずはありません。神様はご計画を担う者たちを、ここに「集められ」ました。
 給仕役と料理役は夢を見ました。給仕役の夢を聞いたヨセフは、近々ファラオが彼を赦し、元の職へ戻すことを意味する夢だと解き明かします。そして「その時にわたしを思い出してください。」と、給仕役に願います。
 ルカによる福音書に、イエス様と共に十字架につけられた犯罪人の言葉が記されます。彼は「わたしを思い出してください」と、イエス様の隣の十字架の上から願います。その時、イエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」と言われました。犯罪人は人生の最後、この世の「どん底」十字架刑を執行されています。しかし、イエス様は一緒に楽園にいるとおっしゃってくださいました。
 共にどん底に降ってくださり、共に歩んでくださった。イエス様は信じる者を見捨てられません。もしかしたら、イエス様はこの犯罪人が、共に十字架に掛かることを既に知って居られたのではないでしょうか。
 イエス様にその最後を委ねた犯罪人は、その時救われました。「私たちの救いは神様がなさることではありませんか」と信じることは「どん底」をも楽園に変える信仰です。信仰に生きる者として歩みましょう。
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順風の時も、逆境の時も

創世記39章10~23節

澤田 武師

主題聖句 「ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた。」 創世記39章20節
ヨセフはエジプトのファラオの「侍従長ポティファル」の奴隷となっています。侍従長の屋敷には、ヨセフが頼りにできる人は誰一人としていませんでした。また、ヨセフが何者なのかを知っている人もいません。
しかし、聖書は、「主はヨセフと共におられた。」と、記しています。それは、ヨセフ物語全体を通して、順風の時も逆境の時も、ヨセフを支えるために繰り返し語られた言葉です。
侍従長は、ヨセフには物事を判断する才能、賜物があることを見抜きました。神様がヨセフを用いて、実務をうまく動かしていることを知りました。彼は神様の祝福を信じて、ヨセフに屋敷の管理の一切を任せます。ヨセフは「順風」の中に居ます。
しかし、ヨセフは「侍従長ポティファルの妻」から誘惑を受けます。ヨセフは神様の前で罪を犯すことがないようにと、一切の誘惑をはねのけますが、強引に引き止める妻の手に残ったヨセフの「着物」は、彼女が話す偽りの事実を証しする物となりました。侍従長は怒り、ヨセフから一切の権威を剥奪し、牢獄へと入れます。ヨセフは再び、人々の前から姿が見えなくなります。
神様はポティファルを用いてヨセフの命だけは守りました。神様の壮大なご計画を担う者として、今は「ヨセフはこうして、監獄にいた」。ヨセフの人生は「逆境」へと変わりましたが、そこにも神様の摂理が表されています。
神様がヨセフに与えられた牢獄という環境は、神様の御守りが逆境の中にこそあることを、私たちに教えています。
イエス様の十字架と復活、それは私たちの罪の贖いのためであり、永遠の命を与えてくださったということです。私たち信仰者は既に、常に福音を着ています。ヨセフ物語は、私たちの困難の中に、逆境と思える歩みの中にこそ、神様は共におられることを、私たちに思い出させてくれます。朽ちない、変わることのない、イエス様の福音を着て歩む一週間でありますように。
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