恵みにより信仰によって

エフェソの信徒への手紙2章1~10節

澤田直子師

主題聖句 「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」 エフェソの信徒への手紙2章8節
 エフェソの2章は、クリスチャンとは暗闇から光へと出て行く者であることを示しています。2節の「かの空中に勢力を持つ者」とはサタンを表します。サタンは天には昇れず、さりとて地上は人間に与えられた住処ですから、天と地の間をうろうろするしかないのです。神の愛を知る前のわたしたちは、この力に翻弄されていたというわけです。
 これは、行動の良し悪しや、誰でも心の中では悪いことの一つ二つ考える、ということではなく、自分が正しい、自分の思いが実現することが正しい、と考え、そこに向かって進むこと。それが「肉や心の欲するままに行動する」ことです。
 神の本質として、愛と裁きがあります。神は裁きを曲げることはできません。しかし、裁かれてしかるべきわたしたちを、神は愛しておられる。そこで、わたしたちが受けてもよい限度を大きく超えて、神は憐れんでくださいます。これが神の恵みです。
 それを目に見える形で現わしてくださったのが、イエス様の十字架と復活です。罪の死と、新しい命が示されました。
 その愛を信じることが救いとなります。パウロが何度も繰り返す「信仰義認」です。神の大きな憐れみ、恵みに、わたしたちが信仰をもって答える。これが、神様の望まれる交流です。
 ここに自力が入るスキはありません。信仰者は、一生懸命になるほど誘惑に遭います。「こんなに奉仕しているのに」「捧げているのに」と、「のに」が付いてくるのです。「のに」は怒りを生み、神様の御旨を見る目を曇らせます。
 わたしたち信仰者は「キリスト・イエスにおいて造られた」のです。それは、神の憐れみにより頼み、神の愛を信じ、善い業を行って、神様と交流し、神の栄光に加えていただくためです。
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満ち満ちる生命

エフェソの信徒への手紙1章15~23節

澤田直子師

主題聖句 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」 エフェソの信徒への手紙1章23節
 パウロは、エフェソへの手紙をローマの獄中で書きました。外からもたらされるエフェソの教会についての情報は、とても良いものばかりで、パウロを喜ばせました。エフェソの教会はしっかりと信仰に立ち、同信の人々を助け、伝道者まで生み出しています。それでもパウロは、そこで満足しないでほしい、神の恵みはもっと大きなものだと伝えたいのです。
 パウロ自身は既に「知恵と啓示の霊」を与えられ、心の目を開かれた経験をしています。愛するエフェソの信徒にも、同じ喜びを得てほしいと願って祈ります。
 「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」(19節)神の力はわたしたちにも働いています。しかしそのことを悟らない時があるのです。ですから神様は信仰者に「教会」を与えてくださいました。わたしたちは、共に祈り賛美を捧げ、御言葉をいただく礼拝の内に、そこに共に集う信仰者の交わりを通して、自分の内にもキリストの光があることを見い出します。
 それは教えられた知識ではなく、信仰者自身の体験です。主の愛が、時代も国も超えて働いて、教会が世になかったら決して出会わなかったであろう人々を結び付けている、その中に自分もいる。大きな驚きであり感謝です。
 信仰者になる前から、神のお働きはわたしたちに作用していますが、受け皿が小さいときは恵みも小さいのです。イエス様は「からし種一粒ほどの信仰があれば、山も動く」と言われました。
 わたしたちの目が開かれる時、わたしたちは神の御業を見るだけでなくそこに参加します。神様に知恵と啓示の霊を祈り求め、絶大な働きかけをこの身に感じて歩みたいと願います。
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頭であるキリストのもとに

エフェソの信徒への手紙1章8~14節

澤田 武師

主題聖句 「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」 エフェソの信徒への手紙1章10節a
 パウロは、「神の御心」として、時間と空間とを超越した神様の恵みが“わたし”にも与えられたと確信しています。さらに、「神はこの恵みを“わたしたち”の上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画を“わたしたち”に知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった“神の御心”によるものです。」と、イエス様を信じる“わたしたち”も、“神の御心”によって救いのご計画の中にあることを証します。神様の祝福を褒めたたえる讃歌をパウロは記しているのです。
 10節、神様は囚われの身となっているパウロに、イエス様によって明らかにされる理想の教会の姿を示されました。それは、この地上だけに留まらず、地のものも天のものもすべてが、イエス様を頭として初めて一つとなる神様の教会であり、その中で、わたしたちだけでなく、福音を聞き、そして信じた“あなたがた”にも、神様の恵みが与えられることを確信して感謝をあらわします。
 私たちは新型コロナウイルス感染予防のため教会が大切にしてきた、一緒に集うこと、分かち合うことを、今は避けなければなりません。そこに身動きできない困難を覚えます。この姿は、囚われているパウロの思いと重なります。この時のパウロには命の危機が迫り、信仰の自由も体の自由もありません。そして世からは完全に分断されています。
 そのパウロに、神様はすべてのものが一つになるご計画を明らかにされました。神の御心は、この豊かな恵みをエフェソの兄弟姉妹と分かち合えるようにと、パウロに手紙を書かせます。人と人とが距離を取らなければならない時代の私たちに対して、教会とは何か、信仰とは何か、神様がこの世に創られた教会、その本質は何であるかが、改めて問われているのではないでしょうか。「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。」その中に私たちも含まれている恵みに感謝いたしましょう。
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十字架の贖いによって

エフェソの信徒への手紙1章1~7節

澤田 武師

主題聖句 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」 エフェソの信徒への手紙1章7節
 パウロの宣教の応答として、神様はこの世に教会を生まれさせてくださいました。生まれたての小さい弱い群れは、この世には受け入れられない存在でした。パウロが、教会に集う兄弟姉妹に、全精力を注いで「教会とはなんぞや」と励ましを込めて記したのが「エフェソの信徒への手紙」です。
 獄中にあるパウロにとって、手紙を書くことが唯一の伝道の手段です。差出人パウロは「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」と記し、イエス様から「わたしの名を伝えるために選ばれた器」(使徒言行録9章)として、囚われの身であっても生かされ、豊かな恵みを与えられている者であることを証しています。
 手紙の冒頭、パウロのイエス様への溢れる思いは、「ほめたたえられますように」との言葉の後に一気に手紙の文字となっていきます。それは、思いを伝えたい「聖なる者、イエス様を信じた者」、受取人であるエフェソの兄弟姉妹たちが居るから、パウロは彼らと共に生かされていると信じているからです。
 パウロは、自分自身が一番神様に祝福された者であると確信しています。だから、神様は全ての人を祝福したいと思っておられることをも知っています。神様は惜しみなく、独り子イエス様をこの世に与えてくださり、約束の聖霊を送ってくださった。また、神様は天地創造の前から、私たちを愛して、聖なる者、汚れのない者となるように選んでくださった。「わたしたち」もこの中に生かされている、という感謝の思いが神様を祝福する言葉となっていきます。
 「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」イエス様の十字架の死と復活の事実は、パウロの実感、確信です。この言葉はとても重要です。何時の時代でも、イエス様に罪を贖われ、赦された者たちがこの世に教会を立てあげて来ました。教会は神様の御業が現わされた所なのです。
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