罪に死に、神に生きる

ローマの信徒への手紙6章1~11節

澤田直子師

主題聖句 「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」 ローマの信徒への手紙6章11節
 「罪」とは何でしょうか?わたしたちは、良いことと悪いことは区別できます。しかし、わかっているのに、良いことを選べない。「罪」はギリシャ語で「ハマルティア」的を外した、という意味です。的は見えているのですが、外してしまうのです。
 罪の誘惑とは「さあ悪いことをしなさい」というのではなく、善に導く声を聞かせない、無視させる、そういうものではないかと思います。イエス様の十字架の贖いを信じる者は、この誘惑の声を聞く耳を持たない。その代わりに、神の愛のささやきが聞こえます。自分に敵対する者を前にして、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」というイエス様の祈りが聞こえるのです。そして、苦しいのは自分なのに、と思いながら、その人のために祈る。祈ることで、平安を得て驚く、そういう体験がないでしょうか?
 罪に死ぬ、とは、自分が後生大事に抱えている、泥水の入ったバケツを空けるようなことです。価値のないものを少しずつためてきて、やっと一杯になった。でも今、目の前に、きれいな豊かな水がある。まず泥水を捨ててバケツを空にしなければ、神様の泉の水を汲むことができません。
 罪に死に、新しい命に生きる。これはキリスト教の重要な教義です。しかし、わたしたち一人一人に現れる時には、わたしという人間のサイズに合わせて現わされます。それはたとえば、笑顔でいる、とか、誰に対しても丁寧な態度を取る、とか、ささやかなことだと思います。日々の暮らしの中に、罪に死に、神に生きる形を求めて、丁寧に生きる一日を繰り返していきましょう。マタイ25:21より「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。」 
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神の住まいとなる

エフェソの信徒への手紙2章14~22節

澤田直子師

主題聖句 「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」  エフェソの信徒への手紙2章22節
 6月は四重の福音を学ぶ月であると同時に、弾圧記念の月でもあります。戦争という異常な状況の中で逮捕・拘留された牧師、集会を禁じられ祈る場を失った信徒がいたことを覚えて祈りましょう。
 「聖化」という教義は、旧約聖書中にも何度も出てきます。神が全く聖いお方であるなら、信仰者も神に倣う者でありましょう、ということです。そのためには、今の自分の状態がどのようなものであるかを見つめなくてはなりません。自分を正しいと信じ、悪は正さなければ、滅ぼさなければ、という短絡的な思考は平和を傷つけます。自分の考えや言葉、行いを、常により高いお方の目に照らして見ないと、すぐに迷います。
 パウロはエフェソの信徒に書いた手紙で、何度も「キリストにおいて」「キリストによって」と繰り返します。キリストこそがわたしたちの平和だからです。「平和」シャロームは、ここでは「和解する」という動詞で考えます。神と人が、義と罪が和解するのです。人間の中にある、義を求める心と、罪にあらがえない悲しみがキリストによって統合されるのです。
 なぜ、わたしたちは、一つ所に集まって礼拝を捧げようとするのでしょうか?わたしたちは「わたし」という器を空にするために集うのです。時を捧げて教会堂に集い、祈りや賛美、献金のように目に見えるものを捧げることにより、目に見えないものも捧げて器が空になったことを、そこに神様の愛と慈しみが満ちたことを、皆で確認するのです。一籠のぶどうでは何もできませんが、数籠のぶどうを踏んで果汁からぶどう酒を造るように。空になるとは、虚ろになることではありません。空いたところに、神様の息が吹き込まれ、命の水が満たされて、満ち満ちて、世に遣わされて行くのです。御霊の実を携えて、出発しましょう。
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娘よ起きなさい

マタイによる福音書9章18~25節

澤田 武師

主題聖句 「群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。」 マタイによる福音書9章25節
 「四重の福音」の「神癒」は神様が私たちを創られた時から、既に私たちの体にも恵みとして与えられています。神様の癒しは、被造物である私たちの体の免疫機能や回復力となって働き、ケガや病から回復させ、その痛み苦しみから私たちを守ってくださっています。
 しかしそれは、傷や病が癒されることだけの、限られた恵みということではありません。私たちは、神様との交わりを通して生きる者として創られ、一人一人の生活が与えられています。実は「神癒」は、私たちの日常に起こる全ての出来事を通しても現わされているのです。弱き者が、困難に立ち向かっていく時、神様は私たちに、助けを与え解決の手段を示してくださいます。
 指導者も病の女も、是非イエス様に会わなければならない重大な理由がありました。「ある指導者」は、自分の娘の死という痛ましい現実に直面しています。彼はイエス様の前にひれ伏し、「娘に手を置いてやってください。生き返るでしょう。」と、願います。もう一人の「十二年間も患って出血が続いている女性」は、全財産を治療に使い果たしても、医者からは見放され、失意の中にありました。しかし、彼女は「イエス様の服に触れさえすれば癒される。」そう信じて、誰だかわからないように、後ろからイエス様に近づきます。
 彼らが求めている答えは、人間の業では成し遂げられません。彼らはイエス様を最後の望みと頼り信じ、癒しを求めてここにいます。信仰者の姿です。
 被造物に命を吹き込み、取り去られるのは神様の御業と信じ、悲痛な願いを持って近づいて来た者たちの心を、イエス様はご存じです。彼らの痛みに、イエス様は癒しの御手をもって触れられます。
 私たちは弱さを持っています。弱さに挫けそうな時もあります。その私たちをイエス様は御手によって、昨日も今日も、明日も起こしてくださいます。それぞれの一日を歩ませてくださいます。それこそは、神に愛されて「神癒」の恵みの中にあるということです。
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主を待ち望む

テモテへの手紙二4章1~8節

澤田 武師

主題聖句 「今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。」 テモテへの手紙二4章8節
 キリスト教の「福音」は一つですが、福音の豊かさの故に、その何処を強調するかによって、プロテスタント教会は多くの教派を生み出して来ました。その中の、ホーリネス信仰、その教理の特色が「四重の福音」です。新生、聖化、神癒、再臨、特に「再臨」は、イエス様が再び来られる約束の時を待ち望む信仰です。それは「日本基督教団信仰告白」の中にも「主の再び来たりたもうを待ち望む。」と、教団に所属する教会の告白として記されています。
 今、世を去る時が近づいたことを悟ったパウロは、テモテに「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」と勧めます。世はイエス様のお言葉を聞かない時が来る、それでも「福音宣教者としての自分の務めを果たしなさい。」と、改めて伝えます。それはいつの時代の伝道者にとっても、変わることの無い、励ましの言葉ともなっています。
 パウロは競技の勝者に「栄冠」が与えられるように、自分の伝道生涯は「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおして来た。」と振り返ります。イエス様を伝える者と変えられ、従い続けて来られた恵みを証しします。
 「義の栄冠」が、唯一の審判者イエス様から与えられる「かの日」、「再臨」が来ることをパウロは楽しみに待っています。
 「再臨」は、まだ誰も体験したことがありません。だから、今は十分な理解はできませんが、その日「再臨を待ち望む全ての人」には「義の栄冠」が授けられます。クリスチャンは、この地上の歩みだけでなく、永遠の命があるとことを信じています。「再臨」はイエス様が約束された、私たちと神様との永遠の交わりの回復の時を表しています。パウロが今は「信仰を守り抜きました」と、その生涯を証ししたのと同じく、「再臨」の時、イエス様の前で、私たちの生涯も「信仰に生き抜いた」と、証しするために、今日も決断をもって、信仰に生かされ続けましょう。
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