そんな人は知らない

ヨハネによる福音書18章12~18節

澤田直子師

主題聖句「『あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか』ペトロは『違う』と言った。」 ヨハネによる福音書18章17節より
 12節には、人間の頑なさが良く描かれています。兵士も祭司たちも、イエス様の「わたしである」という言葉に後ずさりして倒れました。またイエス様が仲間の耳を癒したのを見ました。そうしてなお、イエス様を捕らえて縛ったのです。何とも思わなかったのでしょうか。
 キリスト教の葬儀や結婚式に出席されて「キリスト教式はいいですね」と言われる方は多いのですが、「どうぞ礼拝に来てください」とお誘いすると来ないのです。良いと思う人とクリスチャンの数が合いません。外から見て良くても行くわけではない、テレビの旅番組のようなものです。兵士も祭司もファリサイ派も自分の足場は一ミリも動かしたくないのです。
 カイアファの「一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だ」という思いあがった言葉は、しかし、神様のご計画と一致しています。神の御業はまことに不思議です。
 散って行った弟子たちの中で、一人ペトロだけがイエス様を追いかけます。この勇気は大したものです。それなのに門番の女中に問いかけられると、「違う」と答えてしまいます。ついさっき、イエス様が「わたしである」と進み出たお姿を、目の前に見たのに、自分の番が来た時には「違う」と言ってしまうのです。
 祈るべき時に眠ってしまうと、こうして誘惑に負けることになります。ペトロはそのまま中庭に残って、炭火で暖を取っていました。なぜ留まったのでしょう。「炭火」という言葉は、聖書中2か所にしか出てきません。復活のイエス様が、朝「炭火」をおこして待っていてくださり、ペトロに三度「わたしを愛しているか」と問うた場面です。イエス様は、炭火の暖かさや匂いを通して、ペトロにありありと罪を思い起こさせ、完全な赦しをお与えになったのです。神様の御業に無駄はありません。
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飲むべき杯

ヨハネによる福音書18章1~11節

澤田直子師

主題聖句「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」 ヨハネによる福音書18章11節より
 18章は、それまでのイエス様の告別説教や祈りとは違って、現実世界の事になります。ユダが、ローマの軍隊を引き連れて来ます。そこに、いつもはローマと敵対している祭司やファリサイ派も加わり、皆が武装し、松明を持って乗り込んで来ました。
 イエス様がそこに進み出ていくとは、誰も予想していなかったでしょう。イエス様がお答えになった「わたしである」は、ヨハネの福音書には何度も出てくる「エゴーエイミー」です。これは、モーセが燃える柴の中から神の声を聞いて、神の名を尋ねた時に答えられた言葉と同じです。この言葉を聞いて、ローマ兵も祭司たちも「後ずさりして、地に倒れた」とあります。このことは、イエス様がまことに神の独り子であり、神の栄光を表すために自ら進み出て十字架に付けられる、ということを、弟子たちにはっきりと教えるための奇跡でありました。
 ペトロは剣をふるって、マルコスの右の耳を切り落としました。少なくとも弟子たちは、ただ怯えて立ちすくんでいただけではない、愚かではあったかもしれませんが、イエス様を守りたいと思っていたのだと知ると、少し心が温かくなる思いがします。ルカの福音書には、イエス様がマルコスの耳に触れて癒された、と書かれています。誰の痛みであっても、それはイエス様の痛みとなるのです。イエス様ご自身の痛みは、ほとんどいつも、わたしたちの痛みにはならないにもかかわらず、イエス様は痛む者と共に痛み、その傷を癒してくださいます。
 十字架は「父がお与えになった」杯でした。「飲むべきではないか」は、別訳では「飲まずにいられようか」。イエス様は、そうせずにはいられない思いで十字架に向かわれました。神様の愛はそれほど深かったのです。その愛に贖われたわたしたちも、天の父を仰いで、飲むべき杯を求めましょう。
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一つになる祈り

ヨハネによる福音書17章20~26節

澤田 武師

主題聖句「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。」 ヨハネによる福音書17章21節
 イエス様の祈りは続きます。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」この後使徒たちが語り続ける福音を聞く人々への祈りとして、それは時間、場所を超えた永遠の祈りとなって広がって行きます。その中には私たちも含まれています。
 「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。…。」世は、イエス様を憎み、対立し、受け入れようとはしません。しかし、イエス様は弟子たちの言葉を通して、また、聖書を通して、この世の人々が救われていく姿を既にご覧になっているのです。父なる神様とイエス様が一つであるように、「すべての人を一つにしてください」と願われています。
 「わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、…。」願われているのは、救いの成就です。イエス様はこの世界が創造される前から、永遠におられた方です。その時から持っておられた栄光は、今、罪の贖いのための十字架として捧げられます。この世の暗闇に、救いの完成、神様の愛の光として与えられます。それは信じる者を最も大きな平安へ招いてくださる、イエス様の約束の祈りです。
 私たちの力では神様が望まれる「一つになる」ことはできません。そのため、絶えずイエス様が寄り添ってくださっています。私たちが「一つになる」ことを望んで、神様が働いてくださっていることを覚えたいと思います。イエス様は、繰り返し「一つにしてください」と祈られました。十字架の栄光を受けて一つになるようにと、残る弟子たちのために祈られます。
 イエス様の祈りには、失望の言葉はありません。すべて栄光の言葉です。イエス様は栄光をこの世に残されました。イエス様のお言葉は私たちに光を与えてくださいました。十字架の栄光を知る人々が一つになるためです。
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世に遣わされた者として

ヨハネによる福音書17章13~19節

澤田 武師

主題聖句「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」 ヨハネによる福音書17章18節
 イエス様の祈り。「しかし、今、わたしはみもとに参ります。」差し迫った十字架を前にしても、イエス様には「わたしの喜び」があり、同じ喜びが「彼らの内に満ちあふれるように」と神様に祈られます。イエス様の祈りは、今だけに限られたものではありません。祈りは、これから後も、弟子たちへの励ましとなり続けます。
 イエス様は、弟子たちも「この世に属していない者、憎まれる者」であると言われます。使徒として遣わされた先々で、迫害に会うと断言されます。
 「イエス様の喜びに満たされる」とは、地上の権威や富を主とはしないということです。世界を創造された神様、そして私たちを罪から救うために遣わされたイエス様を、唯一の主と信じることです。
 弟子たちは何の力も権威も持ちません。世は、この弟子たちを亡き者にしようとします。しかし、イエス様は、永遠の命を知り、イエス様との交わりを信じ、聖霊に満たされて使徒と変えられた弟子たちを、この世にお遣わしになりました。「彼らのために、わたしは自分自身をささげます。」「ささげる」という言葉は「聖める」という意味もあります。イエス様は自らの命を十字架につけ、イエス様を信じ弟子たちが「聖く」なるようにと祈られました。
 イエス様の祈りを、私たちへの祈りと聞きましょう。私たちがこの世にある限り、イエス様との交流に終わりはありません。それが信仰の喜びです。しかし、御言葉を信じて生きてゆく時、確信をもって熱心に信じて行くほど、この世からは離れます。この世との隔たりを感じます。信仰によって、この世で苦難や困難を経験することもあります。
 「わたしも彼らを世に遣わしました。」私たちもまた、この世に、それぞれの生活の現場に、遣わされているのです。私たちが信仰者として生かされていること、礼拝をお捧げできることの背後にも、イエス様の祈りと神様の守りがあります。私たちはこの恵みを、片時も忘れてはならないのです。それは信仰生活のすべてをかけて知っていくことなのです。
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