あなたがたはその枝

ヨハネによる福音書15章1~10節

澤田直子師

主題聖句 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」 ヨハネによる福音書15章5節
 ヨハネの15章からは、イエス様の「告別説教」です。この始まりがぶどうの木の例えであることは、イエス様がどれほど弟子たちを愛されたかを物語っています。
 イスラエルはしばしば、神のぶどう畑に例えられました。有名なところではイザヤ書5章「ぶどう畑の歌」です。神は土を耕し、良いぶどうを植え、期待をもってぶどうの実りを待ったけれども、実ったのは酸っぱいぶどうでした。神は「わたしがぶどう畑のためにしなかったことがあるというのか」と嘆きます。
 これは、古代のイスラエルではなく今のわたしたちに対する問いかけでもあります。わたしたちは、何か不都合が起こると、神に対してなぜですか、どうしてわたしが、とつぶやきますが、神様はたぶん「あなたのためにしなかったことがあるのか」と問われるでしょう。
 イエス様は人間として世を歩まれて、その弱さをよく知っておられました。ですから、「わたしにつながっていなさい」と何度も何度も、まるで懇願しておられるかのように言われます。
 14章からのつながりを思ってここを読むとき、イエス様は、ご自身と天の父との深いつながり、愛と従順とを、そのまま、イエス様とわたしたちとの関係に求めておられるのではないかと思います。その深いつながりこそが、「豊かな実」かもしれません。わたしたちは、世を歩む中で、世の豊かさを得るために努力しますが、それと同じだけの知恵と力を、時間を、イエス様とのつながりを深く豊かにするために捧げることは難しいでしょうか。イエス様はそのために十字架で死んでくださいました。
 わたしたちがイエス様につながって、世で結ぶ実は、どのような形になるでしょうか。主に尋ね求めつつ歩んで行きましょう。
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さあ、立て。出かけよう。

ヨハネによる福音書14章27~31節

澤田 武師

主題聖句 「わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」 ヨハネによる福音書14章31節
 イエス様と天の父との間には、揺るがない信頼関係が確立していました。イエス様は、神の最善を信じておられますし、また、神がご自分を信頼しておられることを知っていました。これほどの信頼関係は残念ながらわたしたちには作り出せません。
 このゆえに、イエス様はサタンの誘惑にも揺らぐことがありません。サタンは長年あらゆる人間を誘惑してきましたから、人の弱みを熟知しています。たいていの場合、世的に見てその人の強みであるところが、サタンの狙い目になります。権威があるなら権威を、財産を持っていれば財産を弱点と見て、サタンはそこに付け込んでくるのです。
 聖書を読む限り、完全にサタンの誘惑に打ち勝ったのはイエス様ただお一人です。なぜなら、イエス様は、この世に何も持たなかった。イエス様のものは全て、癒しの技も、奇跡も、御言葉も命さえも、そのまま天の父のものでした。イエス様の明け渡しは徹底しており、その従順は完全でした。
 キリスト教の教義には「救済史」という言葉があります。聖書は、神が人を救おうとする歴史が記されている書物です。それだけではなく、信仰者一人一人も、神の救済史を持っています。それは、信仰者が、何ができようができまいが関係なく、ただ神の憐みにより、救おう、と決められているのです。そのために、イエス様はわたしたちにイエス様の平和をくださると言われます。
 なぜ、わたしたちのような小さな貧しい、愚かな者を救おうとされるのでしょう。その答えは31節にあります。「さあ、立て。ここから出かけよう。」出かけよう、は一人称複数です。イエス様はわたしを一人にはしません。そしてわたしもイエス様を一人にはしません。それがイエス様が望まれることなのです。
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わたしを愛する者

ヨハネによる福音書14章20~26節

澤田直子師

主題聖句 『しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』 ヨハネによる福音書14章26節
 「かの日には」、再臨の時には、「わたしが父の内におり、あなたがわたしの…」と、神様とイエス様は一体であり、そして、あなた方もわたしと一体であることがはっきり分かると、イエス様は語られました。ヨハネによる福音書では、私たちも神様の教会の一員に招かれている、理想の教会の一部分として表されています。そして聖霊の働きは、父なる神様、イエス様、私たち皆が一つになる真理を、私たちに示しています。
 イエス様は「わたしの掟を…、それ守る人…」それは「わたしを愛する者」であると言われ、弟子たちをそう呼びました。イエス様の思いはこの名前に集約されています。名前は三つの重要な要素が含まれ、一つの真理を現します。
 「わたし」は、イエス様御自身です。神様から遣わされた者として、神様の御心を現わし、成就するためにイエス様はおられます。私たちは祈る時、「イエス様のお名前によって」と祈ります。イエス様の祈りとして私たちの祈りが神様に届きます。私たちはイエス様以外のお名前で祈ることはありません。私たちの信仰が向かうのはイエス様以外にはありえなのです。
 「愛する」とは、神様が与えてくださった愛をもって、イエス様を愛することです。それは、とても重要なことになります。しかし、実は私たちは神様の愛を全く持っていません。そんな私たちを、イエス様は「神様の愛」に少しでも近づこうとする者として、既に認めてくださっています。
 「者」とは、イエス様を知り、愛する「人間」のことです。神様は礼拝する者として私たちを造られました。私たちが信仰を持ってイエス様を愛することは、神様が天地を創造された時の、極めて良かった存在になることです。生身の人間を、信仰をあらわす者としてイエス様は見ていてくださる。
 私たちは、神様に選ばれる理由を持ってはいません。しかし神様は私たちを選んでくださいました。惜しみなく愛を注がれるイエス様がおられます。
 今、全ては分からないが、「わたしを愛する者」と呼ばれる私たちがいます。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます

使徒言行録16章25~34節

藤井圭子先生

主題聖句 『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』 使徒言行録16章31節
   藤井圭子著「悟りと救い―求道の果てに―」より抜粋
1.真理の探究より「尼僧道場の規則に喜んで従い、勤行、徹夜念仏、時に托鉢、徹底した菜食主義等、心をこめて守りました。しかし、仏教大学に於ける学びも、道場生活も私に虚しさの解決を与えてくれませんでした。得度剃髪の時も、ある種の覚悟はできましたが、それで心が変えられたとか、喜びに満たされたという経験ではありませんでした。つまり姿形は大いに変わりましたが、決して新しい人間になった訳ではなかったのです。」
2.道・真理・命より「『こんなに努力をしても自分の心は変わらない、神に祈っても何の答えもない、まして仏教にまことの救いはない。私は何か事ある毎にこの偽善の罪にさいなまれ、さいなまれ、やがて年をとって死んでいかなければならない。何と悲しい人生か…。でもどうすることもできないのだから、諦めるしか仕方がない。諦めよう』と、思うのですが、またしても、『何か救いはないものか!何か救いがあって欲しい!何か救いはある筈だ!』と、夜昼なく呻き続けていました。
『私は今まで神様を私のレベルに引き下げて、そんなこと私には考えられないことだから、信じられないことだからと、神様のこと、聖書のみことばを否定ばかりしてきたけれど、神様は私のレベル、スケールのようなお方ではないのだ。天も地も、その中にある全てのもの―この私をもお造りになられたかたなのだ。そして私があれほど努力をしても変えることができなかった心を一夜のうちにすっかりお変えになることがおできになるお方なのだ。』」
「私が若き日、尼僧となって探し求めていた道は、何とイエス様だったのです。求めていた真理は、イエス・キリスト様だったのです。」
 こうして、私は、主イエス様の御救いにあずかり、やがて、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」のお約束通り、私の両親、子どもたち、夫、さらに、親戚の人たちが、次々と救われました。
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