神からの誉れ

ヨハネによる福音書12章36b~43節

澤田直子師

主題聖句 『彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。』 ヨハネによる福音書12章43節
 イエス様と弟子たちは、時が来る前に余計な争いが起こらないように、退かれました。神殿に集まる人々は、イエス様を信じる派と信じない派とに分かれます。後年ヨハネは、福音書を書き記すにあたって、40節でイザヤ預言を引用しました。「行け、この民に言うがよい。よく聞け、しかし理解するな-後略-」ここに疑問が生まれます。信仰を持たない人々は、神様のご計画によって、そうされているのでしょうか?聖書には度々、心を頑なにされたために神様を信じない人が登場します。神様の御業として頑なになるのであれば、信仰を持たなくてもそれでよいのでしょうか?
 サタンの誘惑は届け出制になっていて、神様の許しを得て人間に働きかけて来るようです。(ヨブ記1章参照)なぜ神様はサタンに許可を出すのでしょう?ローマ3:10「正しい者はいない。一人もいない。」とありますが、わたしたちはしばしば、自分が正しい者であると勘違いをします。サタンの誘惑にさらされて敗北し、うなだれて御前にへりくだることを、神様は教えようとされるのかもしれません。
 議員の中にも、イエス様を信じる人々はいたのです。しかし、彼らは何よりも、自分たちの城である会堂から追放されることを恐れました。彼らは、目に見えない神からの誉れを捨てて、目に見える人からの誉れを選んだのです。ヨハネによる福音書は、十字架を「栄光」ととらえます。人からの誉れには目もくれず、神からの誉れのみを追い求めたイエス様は、十字架で死なれました。その死は、2000年近く経った今も、たくさんの人を救っています。
 「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」  マタイ16:24~25より
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光の中を歩け

ヨハネによる福音書12章27~36節a

澤田直子師

主題聖句 『『わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。』 ヨハネによる福音書12章13節 b
 ヨハネによる福音書では、十字架を受難ではなく栄光ととらえます。イエス様は、十字架に向かう道を目の前にして『わたしはまさにこの時のために来たのだ』と心を奮い立たせます。神様からの応答は『わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。』という声でした。既に、とはクリスマスから始まるイエス様の歩み、再びは、これから起こる十字架と復活です。
 誰の信仰生活にも「既に」と「再び」があるものです。一度十字架の贖いを知って受け入れたら、もう大丈夫、というわけにはいきません。信仰者であっても、何を見ても感謝できずに不幸の種ばかりを捜す日があるのです。そうならないために、わたしたちは、「再び栄光を現してください」と祈り求める必要があります。
 ユダヤ人たちが望んだメシア像は、他国の支配からの解放、強大な王国の再来、他民族から羨望される神の選民を率いるリーダーでした。そして彼らは、神のご計画がどうあろうと、自分たちの理想以外は受け付けませんでした。神様のご計画は、人間の思惑を超えたところで進んでいきます。答えがないということが神様の答えであることがあり得ます。
 天地創造のはじめ、神は「光あれ」と言われました。その時そこにあったものは、『闇が深淵の面にあり』光があるところには闇があるのです。わたしたちの内に光があるのならば、闇もそこにあります。イエス様は『暗闇に追いつかれないように』と言われます。
 罪の暗闇に陥る時、わたしたちは、自分のしていることがわからなくなります。自分は間違っているかもしれない、と思う時は、それほどひどい間違いはしないものです。自分は正しいと信じ込む時、人間は人を裁き、勝たなければ、と戦いを仕掛け、人を傷つけてしまいます。『光のあるうちに光を信じなさい。』イエス様を見失うことのないように、光を『再び』求めましょう。
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一粒の麦

ヨハネによる福音書12章20~26節

澤田 武師

主題聖句 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」ヨハネによる福音書12章25節
 アンデレとフィリポはイエス様にギリシア人の願いを告げます。イエス様のお答えは「人の子が栄光を受ける時が来た」。そして、蒔かれた「一粒の麦」に例えて、話されました。
 まだ誰も、今、十字架の出来事が迫っていることは分かりません。そして、弟子たちも、神様のご計画としての、十字架の意味を知ることはできません。 
 この世が復活の命で満たされ、信じる者に豊かな実を結ばせるために、十字架に死ぬために、イエス様はエルサレムに入られたのです。
 厳密に言えば、イエス様の例えは現実とは異なります。蒔かれた一粒の麦は地の中で生きます。死にません。その命は土地の栄養や水、空気によって、新しい命として再び実をつけます。
 しかし、イエス様は、「一粒の麦がそのままの姿で生き続けることを放棄する」ことが「死」であると言われます。「一粒の麦」の死は、到底作物も実らない土地ですら、豊かな実を結ぶ土地へと変えることができます。イエス様の十字架の「死」は、罪に覆われた心も、永遠の命をもつものへと変えてくださいます。そこにイエス様の十字架の死が必要なのです。
 私たちには、神様に創造された者として、限られた時間、その中で生きる命が与えられています。イエス様を知る、信じることにより、イエス様が十字架の死をもって、私たちの限りある命を、永遠の命へと変えてくださった。罪に汚れた命を、聖なる命としてくださった。私たちは、生物としての死は体験していませんが、既に、死んだのです。そして、罪赦された者として永遠の命をいただいたのです。ここに死を乗り越えて行く希望があります。
 十字架は、人間的な思いから見れば、何も変えることのできない、敗北の姿、無益な姿です。しかし、この十字架の死によって、人々は救われるのです。イエス様は率先して、十字架に架かってくださったのです。信仰とは、大胆に神様に委ねていく生き方です。神様に命を委ねた者には、永遠の命が与えられると信じて生きることです。自己に死に、神様の前に生きましょう。
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ホサナと叫び

ヨハネによる福音書12章12~19節

澤田 武師

主題聖句 『ホサナも主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に。』  ヨハネによる福音書12章13節 b
 共観福音書には、エルサレムに入城するために、イエス様が弟子たちに命じ たお言葉が記されています。一方ヨハネは、イエス様のお言葉の代わりに、イエス様と関りを持った人々の言葉を記しています。イエス様を迎える群衆は、「ホサナ」と喜び叫び続けます。しかし、四日後、イエス様の裁判で、彼らの 叫びは「十字架につけろ」と、正反対のものに変わってしまいます。
 ファリサイ派の人々は、群衆のホサナの声を聞き、「何をしても無駄だ」と言います。しかし、すぐ後に彼らは群衆を扇動して、イエス様に対する偽りの 証言を語らせます。そしてピラトにも十宇架刑の判決を迫り、実行させます。ピラトの判決の言葉にも虚しさがあります。彼らの言葉は、イエス様を十字架 に向かわせる言葉に変わりました。
 16節 「弟子たちは…分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたもの…イエスにしたということを思い出した」と、ヨハネは、弟子たちのこの後の様子を、説明文的表現で記しています。
 弟子たちは、イエス様が地上の王になることを夢見ていていましが、イエス様が逮捕された時、いち早く逃げてしまいます。しかしそれで終わったわけで はありません。弟子たちが復活の主と再会した時、イエス様の十字架を栄光と信じ、今までのことが聖書の預言であり、預言が成就したことを伝える者へと、変えられていきます。
 無言のイエス様の存在は、すでに十字架の死が始まっていることを示してい ます。まだ誰にも見えませんが、確かに十宇架はイエス様と共にあります。そ して、この後に誰にでも十字架は見える形で現わされます。イエス様の十宇架 の贖い、救いの恵みを信じるもの言葉は虚しくなりません。「ホサナ」(私たち に救いを)と 叫ぶ祈りの言葉は実現し、十字架の罪の贖いは、罪赦された者が 得る真の平和として私たちに与えられます。「ホサナ」そう祈れば、私たちは救われるのです。この言葉は変わることがありません。
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