命のパンを与える

ヨハネによる福音書6章41~51節

澤田 武師

主題聖句 「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
        わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」  ヨハネによる福音書6章51節

 「わたしは天から降って来た生きたパンである」とのイエス様の告白は、ユダヤ人に「つまずき」を覚えさせました。「ヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」ユダヤ人の言葉は、イエス様の素性を知っている者、イエス様の近くで生活をしていた者たちならではです。
 ユダヤ人は自分の系図を大切にします。一族の系図に自分の名前があることが、存在の証しであると考えていました。彼らはイエス様の父であるヨセフ、母であるマリアも知っていると言います。その息子であるイエス様は、彼らにとっては、あまりにも近くの存在でしかありませんでした。
 その結果、彼らは奇跡を経験しながら、その本質を見ることができませんでした。彼らが見たのは、自分たちと同じ人間として生活されているイエス様のお姿です。
 「父が引き寄せてくださらなければ」と、父である神様を受け入れなければ、決してわたしを受け入れられないとイエス様は告白されます。
 イエス様の人間としての証しが、地上の父であるヨセフの息子であることならば、天の父なる神様の独り子であることがイエス様の神様としての証しです。
 「つぶやき合うのをやめなさい」と、イエス様は命令されます。残念ながら私たちも「つぶやき」ます。信仰生活、奉仕、兄弟姉妹、時には牧師の姿勢につまずきを感じます。その時に私たちの心の主人となっているのは誰でしょうか。あの人の言葉でしょうか。あの人の行いでしょうか。
 「わたしは天から降って来た生きたパンである。」十字架によって引き裂かれるお体を、イエス様は恵みのパンとして与えてくださいます。それは恵みを受ける者が何を心に持っているか、今、何を献げなければ、差し出さなければならないのかを、問われることになるのです。
 この告白は、聖餐として現実になっています。実際に、味わうことの出来る聖礼典として与えられています。キリスト教は、具体的に約束された救いを、文字通りに味わうことができる宗教なのです。イエス様が告白された永遠の命を、味わうことができるのです。み言葉は、恵みの糧となるのです。
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何を見て、何を信じるか

ヨハネによる福音書6章34~40節

澤田直子師

主題聖句 『わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、
        わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。』
                                   ヨハネによる福音書6章40節

 この御言葉をイエス様がお教えになったのは、パンを欲する群衆に対してでした。イエス様のお言葉の意味を考えることさえせず、ただ、今日も明日も無料の食事を与えてほしい、という身勝手な群衆に向けて、イエス様は『わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない』と言われます。イエス様を信じるというのは、決して見捨てられることがない、ということです。
 わたしたちの生きるこの世には、目に見えない線が引かれています。できる・できない、持っている・持っていない、そういう線のどちら側にいるかで、その人の価値が計られたり、その人の言う事の重さが違ってきたりします。ですから、わたしたちは、目に見える価値を持たなければ幸せに生きていけないと思いがちです。
 イエス様は、そんなことには関係なく「わたしのもとに来る人」とだけ、条件を定めます。イエス様が決して追い出さないその証拠は、聖書のあらゆるところに証しされているのですが、残念な事には、多くの人が、時には信仰者までもが『見ているのに信じない』のです。
 38~40節は「決して追い出さない」ということは具体的にはどういう意味かを説明しているところです。一番大切なのは、イエス様の全ての言葉と行いとは、神様の御心の現れだということです。罪人のわたしがイエス様の憐みによって救われた、というのではなく(結果的にはそうなのですが)最初から神様はわたしを救う、と決めておられて、そのためにイエス様を遣わしてくださった、ということです。
 『一人も失わない』。地上の人生だけでなく、肉体の命が終わった後も、この世界の終わりの日が来て新しい天と地が現れた時にも、イエス様のもとに集まった者たちは、神の平和の中にあるのです。
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本当に必要なもの

ヨハネによる福音書6章22~33節

澤田直子師

主題聖句 『朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。』
 イエス様を追いかける群衆は、イエス様を自分たちの理想の王にしたいと願っています。ローマ帝国の支配を打ち砕き、ユダヤ人の王国を打ち立てるダビデ王の再来を夢見ているのです。ですから、イエス様がここで永遠の命について教えようとしても、聞き入れる耳はありません。昨日わずかな食物で5000人を養ったように、今日も、明日も、ただでパンが食べたいという極めて世的な欲の前に、イエス様が真理を説いてもかみあうことがありません。
 「永遠の命」とは何か、イエス様が『あなた(神)と、あなたがお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』(ヨハネ17:3)と言っておられます。この「知る」は、知識としてではなく、関係性を持ち、保ち、体験的に継続的に知っているということです。
 では「永遠の命に至る食べ物」とは、何でしょうか。聖書にははっきりと答えが記されています。申命記8:3『人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる』27節のイエス様のお言葉に3つの真理が表されます。1、永遠の命に至る食べ物、主の御言葉を求めなさい。2、イエス様が与える食べ物は神の御言葉である。3、それらは全て神の御心によって定められている。
 キリスト教では、信仰を持つ心のありようを「回心」心が回る、と言い表します。改心ではありません。わたしたちは自分で自分の心を改めることはできないのです。しかし、世を向いている心をぐるりと回し、神様の方を向くことはできます。人間の愚かさは、一番必要なものが何かを知らない、ということではなく、知っているのに求めることができないところにあります。申命記30:14『御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる』わたしたちの内にある永遠の命に思いを至らせ、朽ちない食べ物を求めましょう。
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恐れなく近よれ

ヨハネによる福音書6章16~21節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『わたしだ。恐れることはない。』」 20節
 「五千人の給食の奇跡」は、人々の空腹を満たし、不足は喜びへと変えられました。しかし、次の瞬間喜びは新たな不足へと変わって行きます。ローマからの解放、そのために人々はイエス様を求めます。
 もし、人の思いが全て叶えられるとしたら、人は平安になれるでしょうか。一つのことが満たされても、人は次々と新しい不足を探し出して、また、不安になります。願いが叶っても人が不安から解放されることはありません。
 私たちの信仰は、神様の御心を求めて行くことです。神様は愛をもって私たちの不足を満たしてくださいます。何が神様の本質なのかをしっかりと知らなければ、信仰は自分中心で、神様に利益を求める自己中心の心へと変わってしまいます。イエス様は人々が際限なく自分本位に求めてくるのは「恐れ」からであり、それは「神様の本質を見ない恐れ」であることを見抜いて、「恐れ」から退かれました。
 弟子たちは、自分たちだけでガリラヤ湖の対岸へと漕ぎ出します。ガリラヤ湖の漁師だった弟子にとって、湖の横断は、何度も経験してきたことです。しかし、今はイエス様が一緒ではない、ここにも不足があります。舟は目的地の対岸まであと一歩のところまで来ますが、突然の嵐が弟子たちの乗った舟をその場に留めます。
 17節「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」このお言葉は弟子たちの不足をよく表しています。イエス様を待ち続けている弟子たちの思い、それでも、見切り発車のように、暗闇に漕ぎ出して行った弟子たちに、嵐は「暗闇の中の恐れ」を与えます。恐れに覆われている弟子たちに、イエス様は見えません。
 私たちも、その場に立ち往生してしまうような嵐を、世で経験します。「恐れ」は日々の生活の中にも、これから決めて行かなければならないことの中にもあります。神様は今、ここにはおられない、もしそう思ったら、私たちの信仰はもとより、私たちの存在の意味をも失ってしまうことになります。
 弟子たちにも、そんな私たちにも「わたしだ。恐れることはない」イエス様は直接声をかけてくださいます。これほど力強い励ましのお言葉はありません。
 今、路の途上で苦しんでおられる方、イエス様は全てを見ておられます。あなたの恐れの全てを知っておられます。目的地まであと少しです。イエス様は必ず来られます。それぞれの目的地に向って、恐れを捨てて、一歩前進しましょう。
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感謝の祈りを唱えてから

ヨハネによる福音書6章1~15節

澤田 武師

主題聖句 「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人に分け与えられた。」11節a
 目の前に在るのは、空腹の5,000人以上の人々とイエス様の問いに答えを持たない弟子たち。それでも、自分一人分の食糧を献げようとした少年。私たちの常識から見れば、到底何も解決しない、皆が途方に暮れている光景です。しかしそこにはすべての結末を知っておられる方がいます。イエス様は少年の持っていたパンを取って、「感謝の祈りを唱えてから」人々に分け始められました。
 「感謝の祈り」とは、共観福音書での最後の晩餐の時、イエス様の祈りに使われた言葉と同じです。それは、家族で食事をするように、お腹を空かした多くの者を食事に招いた家の主人として、目の前にいる者全てを「満たす」ための祈りです。
 イエス様なら、石をパンに変える奇跡も、天からもう一度マナを降らす奇跡もおできになります。しかし、今イエス様が手に持っておられるのは、少年が差し出した小さな献げものです。一人の少年が持っていたイエス様への信頼をイエス様は喜ばれ、皆が理解できる、形のある豊かな祝福へと増やされました。
 「どこでパンを買えばいいだろうか」少年は自分の献げものがイエス様の問いの答えになるとは思っていなかったでしょう。それでも献げました。何かの役に立つかもしれないとの思いが、途方に暮れている者たちを豊かな食卓へと招きました。
 イエス様の祈りは「弟子たち」への祈りでもありました。皆が満腹した後に、イエス様は弟子たちに残り物を「集める」よう言われました。集めるために使われたのは、当時ユダヤ人なら誰でも身に着けていた荷物を入れるための小さな籠です。イエス様は、一人一人の籠の中にも祝福を満たされました。弟子たちにも祝福が与えられ、喜びで満たされたのです。自分たちのための奇跡でもあったと知らされた出来事です。
 イエス様はこの奇跡の中に、全ての者の罪を贖う献げ物としてのご自分のお姿を、見ておられたのではないでしょうか。人々の罪を贖うために、自らのお体を裂いて、分けてくださったイエス様。私たちはこの方から、生きる糧をいただきます。
 私の籠は、既にイエス様の祝福で満たされています。感謝いたしましょう。それは、感謝の祈りから始まりました。私たちも祈り求めて歩き始めましょう。
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