すべての人に開かれている

エフェソの信徒への手紙2章14~22節

澤田 武師

主題聖句 「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、
        御父に近づくことができるのです。」  2章18節

 「宗教改革」によって「プロテスタント教会」の信仰が生み出され、今、私たちは礼拝の中で「日本基督教団信仰告白」として告白しています。
 信仰告白の中では、「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり、されば、…信仰と生活との誤りなき規範なり。」と、信じるのは「聖書のみ」であると告白します。エフェソ2:18「このキリストによって…霊に…、御父に近づくことができるのです。」パウロは、聖書が救いの基となる三位一体の神を示していることを証詞しています。人の権威によって聖書が隅に追いやられた時代もありましたが、しかし、今私たちは聖書に証詞されたイエス・キリストを礼拝し、永遠の命を得ることを信じると告白します。
 ルターは、「贖宥状」の問題を95ヶ条の論題に記しました。善行を積んでも、禁欲生活をしても罪を赦されたと確信できなかった彼には、贖宥状を受けいれることは到底できません。信仰告白では「御子は我ら罪人の救いために人と成り、十字架にかかり、…神にささげ、我らの贖いと…ただキリストを信じる信仰により、我らの罪を赦して義としたもう」と、ただ「イエス様を信じるのみ」、罪の赦しがある。そこには人の業は一切関係ない。エフェソ2:16「十字架を通して、…、十字架によって…。」パウロは、イエス様の十字架の贖いだけが、私たちの罪を赦し、神様との和解の道を開いてくださると説きます。信じるだけで救われるのです。
 ルターは教会に集う者が「霊的」と「世俗的」な二つのクラスに分けられていることを批判しています。「万人祭司」とは、「教師も信徒も福音宣教のための祭司」という事です。2:19「従って、あなたがたはもはや、…神の家族であり」、そして信仰告白では「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。」と、神様の前に集う時、神の家族としての存在となると告白しています。聖書の中のイエス様を信じ続ける、この一点に立ち続けることが私たちの証詞です。

生ける神殿

ヨハネによる福音書2章13~22節

澤田直子師

 「宮清め」と言われるこの出来事は、イエス様が神殿で商売をしている人々に激しい怒りを表した場面です。イエス様は神殿を「祈りの家でなければならない」と嘆かれます。エルサレム神殿では、捧げものは傷のない牛や羊、献金は当時のローマ通貨ではなくユダヤの貨幣と決められていましたので、遠くから参拝しに来る人々には、これらの商いは実は便利なものでした。しかし、神殿で商売をする権利を売って祭司が私服を肥やしている神殿には「祈りの家」の姿はありません。
 ユダヤ人たちは、イエス様に高慢な問いをぶつけます。またこれに、珍しくイエス様は受けて立ちます。『この神殿を壊してみよ。三日で立て直して見せる。』実はこの時、エルサレム神殿は未完成です。またこの後、約40年後にはローマによって徹底的に破壊されてしまいます。それに対して、十字架の三日後に復活されたイエス様の福音は、壮麗な神殿のように目に見える形ではなくとも、名もない人々の命がけの働きによって、世界中に告げ知らされます。
 イエス様は『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』(マタイ18:20)と言われました。またパウロは『あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか』(第一コリント3:16)と問いかけます。神の神殿には生命があるのです。イエス・キリストの名によって集まり、そこにイエス・キリストがおられる。それが生ける神殿、現代の教会の姿でなくてはなりません。
 生命があるということは、変化し、成長し、病み、癒され、痛む時もあるということです。生命はきれいごとだけではできていません。愛する時も愛せない時もあり、祈りと賛美にあふれる時も、祈る言葉もない時もあります。しかし、その生命がイエス・キリストに贖われたものであるがゆえに、無条件に『わたしの目にあなたは価高く、貴い』と宣言されるのです。わたしたちが世に出て行く時、祈りの家として歩み出て行けますように。生ける神殿として立つことができますように。

働き人は知る

ヨハネによる福音書2章1~12節

澤田直子師

 イエス様の最初の奇跡が「カナの婚礼」で行われたことには、深い意味が隠されています。まず、結婚は神の特別な祝福であり、新しい家庭の始まりですから、イエス様の公生涯が始まるにふさわしい舞台であったこと。また、聖書では、神と人間とを花婿と花嫁にたとえ、偶像崇拝を姦淫にたとえています。神と人間との完全な和解の時がここから始まるにふさわしい場所として、カナの婚礼が選ばれたのではないかと思います。
 イエス様は召使いに、6つの水がめを一杯にするように命じます。ひとつが78~117リットル、すべて人力で汲むのはけっこうな重労働です。聖書では7を完全数と捉えますから、そのひとつ手前の6を、これから救いが完全になるしるしと解釈する研究者もいます。
 しかしもっとも重要な事は、水がぶどう酒に変わったことと、水を汲んだ召し使いはそれを知っていた、この2つです。パレスチナの地においては、水は豊かさの象徴でした。しかしその豊かさは現実の世の豊かさです。イエス様は最後の晩餐において弟子たちにぶどう酒の杯を渡しながら「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われました。イエス様を知る者の心は、この世の目に見える豊かさに囚われず、まことの豊かさに導かれていくのです。
 「このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていた」福音は真理であり、誰にでも開かれます。ちょうど、カナの婚礼に招かれていた人々皆に、ぶどう酒がふるまわれたように。しかし、自らの体を使って働きを捧げた召し使いたちは、奇跡の業に参与しました。働き人こそが、神様の御業を、福音を見るのです。
 わたしたちは、教会に集う兄弟姉妹のために、また、まだ教会に来ない人々のためにも祈ります。トラクトやチラシを配り、手紙を出したり訪問したりもします。これは召し使いが水がめに水を汲むのと同じです。イエス様は、いつでも、ご自分の奇跡の業に、わたしたちの働きを用いようとしておられます。いつの世も変わらない主の御業を信じて、その業に加えていただきましょう。

わたしは、あなたを見た

ヨハネによる福音書1章43~51節

澤田 武師

主題聖句 「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」 1章46節
 「来て、見なさい」、フィリポの率直な言葉は、メシアへの執着をもっていたナタナエルに、イエス様へと向かう一歩踏み出す勇気を与えました。その彼にイエス様は「見なさい。まことイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と、語られます。
 もし、私たちがイエス様にお会いして「見なさい」と、言われて褒められたら…。嬉しいですが、一抹の不安はあります、怖くなってしまいます。それは自分の信仰の貧しさを一番知っているのは自分自身であるからです。
 ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と、問います。イエス様はナタナエルの“過去と未来”について「わたしは、あなたを見た」と、その歩みを示されました。
 ナタナエルも自分の信仰を守っていました。聖書を学んでいました。求めていました。本当のメシアに出会うことを祈っていました。その心の中をイエス様は見ていてくださいました。彼は、自分の過去を知り、自分の今の生活を見ていてくださったイエス様こそ、神の子である、と信仰を言い表します。
 イエス様はナタナエルに、「あなたは、見ることになる」と、これからナタナエルがしっかり見なければならない未来、再臨の時が来ることを示します。
 「天が開く」とは、人間の限界が突き破られる時が来る、神様の力によって人間は死をも克服し、復活の命を与えられる時が来ることを意味しています。彼は知りました。自分の名前の意味「神は与える」。神様は既に多くのものを備えてくださった。イエス様と出会い、生涯従う道を与えられていた。彼はイエス様の中に、その全てを認めました。
 十字架、罪の贖い、復活、永遠の命、私たちもイエス様の中に、神様の全てを見ることになります。全てをしっかりと見て行きましょう。「わたしは、あなたを見た」イエス様は片時も私たちから目をそらされません。この方を見つめて行きましょう。

来なさい。そうすれば分かる

ヨハネによる福音書1章35~42節

澤田 武師

主題聖句 「そして、シモンをイエスのところへ連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ―『岩』と言う意味―と呼ぶことにする』と言われた。 1章42節
 洗礼者ヨハネは、イエス様を見つけると指さし、「見よ、神の小羊だ」と自分の弟子たちに「語り」、「聞かせ」、イエス様に「従わせ」ました。彼は「後から来られる方」が本当のメシアであることを確信し、弟子でさえもイエス様に委ねました。それは、彼が自分の働きが終わったことを自覚しての行動です。
 この流れは、洗礼を受けようと思う者が歩む道順と同じではないでしょうか。受洗を決める。そこには信仰的に信頼できる人の言葉があります。聞く耳が備えられました。そして一歩進む勇気が与えられました。この方々が教会を形成します。神様との新しい関係に入られます。
 イエス様は振り返られ、先に「何を求めているのか」と声をかけてくださいました。神様はいつも先に「何を」と声をかけてくださる。神様は私たちとの新しい関係を求めておられます。
 「泊まる」と訳されている言葉は、元々「留まる」という意味の言葉です。「わたしにつながっていなさい」(ヨハネ15:4)告別説教で語られた「つながる」と同じ意味の言葉です。この言葉は決してひと時の状態を表わしている言葉ではありません。弟子たちはイエス様のところへ行き、そしてこの方に「留まろう」と決心しました。
 イエス様は「来なさい。」ただ従えば全ては分かると語られます。イエス様は私たちをも弟子として、近くに留めようと招いてくださいます。
 イエス様との出会いはその後の生き方を変えます。アンデレはまず、兄弟シモンの所へ行きました。その時初めて、他人にイエス様を語らずにはいられない自分を発見することになります。ここにもイエス様との新しい関係に生きる者が生まれました。「主なる神はこう言われる。『見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。』」(エゼキエル34:11)。イエス様と共に歩む者たちが、新しい歩みを始めました。新しい関係が始まりました。