生ける神殿

ヨハネによる福音書2章13~22節

澤田直子師

 「宮清め」と言われるこの出来事は、イエス様が神殿で商売をしている人々に激しい怒りを表した場面です。イエス様は神殿を「祈りの家でなければならない」と嘆かれます。エルサレム神殿では、捧げものは傷のない牛や羊、献金は当時のローマ通貨ではなくユダヤの貨幣と決められていましたので、遠くから参拝しに来る人々には、これらの商いは実は便利なものでした。しかし、神殿で商売をする権利を売って祭司が私服を肥やしている神殿には「祈りの家」の姿はありません。
 ユダヤ人たちは、イエス様に高慢な問いをぶつけます。またこれに、珍しくイエス様は受けて立ちます。『この神殿を壊してみよ。三日で立て直して見せる。』実はこの時、エルサレム神殿は未完成です。またこの後、約40年後にはローマによって徹底的に破壊されてしまいます。それに対して、十字架の三日後に復活されたイエス様の福音は、壮麗な神殿のように目に見える形ではなくとも、名もない人々の命がけの働きによって、世界中に告げ知らされます。
 イエス様は『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである』(マタイ18:20)と言われました。またパウロは『あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか』(第一コリント3:16)と問いかけます。神の神殿には生命があるのです。イエス・キリストの名によって集まり、そこにイエス・キリストがおられる。それが生ける神殿、現代の教会の姿でなくてはなりません。
 生命があるということは、変化し、成長し、病み、癒され、痛む時もあるということです。生命はきれいごとだけではできていません。愛する時も愛せない時もあり、祈りと賛美にあふれる時も、祈る言葉もない時もあります。しかし、その生命がイエス・キリストに贖われたものであるがゆえに、無条件に『わたしの目にあなたは価高く、貴い』と宣言されるのです。わたしたちが世に出て行く時、祈りの家として歩み出て行けますように。生ける神殿として立つことができますように。