わたしは、あなたを見た

ヨハネによる福音書1章43~51節

澤田 武師

主題聖句 「するとナタナエルが、『ナザレから何か良いものが出るだろうか』と言ったので、フィリポは、『来て、見なさい』と言った。」 1章46節
 「来て、見なさい」、フィリポの率直な言葉は、メシアへの執着をもっていたナタナエルに、イエス様へと向かう一歩踏み出す勇気を与えました。その彼にイエス様は「見なさい。まことイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と、語られます。
 もし、私たちがイエス様にお会いして「見なさい」と、言われて褒められたら…。嬉しいですが、一抹の不安はあります、怖くなってしまいます。それは自分の信仰の貧しさを一番知っているのは自分自身であるからです。
 ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と、問います。イエス様はナタナエルの“過去と未来”について「わたしは、あなたを見た」と、その歩みを示されました。
 ナタナエルも自分の信仰を守っていました。聖書を学んでいました。求めていました。本当のメシアに出会うことを祈っていました。その心の中をイエス様は見ていてくださいました。彼は、自分の過去を知り、自分の今の生活を見ていてくださったイエス様こそ、神の子である、と信仰を言い表します。
 イエス様はナタナエルに、「あなたは、見ることになる」と、これからナタナエルがしっかり見なければならない未来、再臨の時が来ることを示します。
 「天が開く」とは、人間の限界が突き破られる時が来る、神様の力によって人間は死をも克服し、復活の命を与えられる時が来ることを意味しています。彼は知りました。自分の名前の意味「神は与える」。神様は既に多くのものを備えてくださった。イエス様と出会い、生涯従う道を与えられていた。彼はイエス様の中に、その全てを認めました。
 十字架、罪の贖い、復活、永遠の命、私たちもイエス様の中に、神様の全てを見ることになります。全てをしっかりと見て行きましょう。「わたしは、あなたを見た」イエス様は片時も私たちから目をそらされません。この方を見つめて行きましょう。