全ての土台はイエスさま

使徒言行録14章21~28節

佐々木良子師

 パウロの第一次伝道旅行の締めくくりの箇所です。今までは新しき地に、前へ前へと進んできましたが、今回は今まで伝道し迫害に遭遇したリストラ、イコニオン、アンティオキアの町を引き返すという行程となります(21節)。
 瀕死の重傷を負わされたようなリストラの町を戻るのですから、再度危険な目に遭遇する可能性が大です。しかし、そのような地においてもイエス・キリストを信じる弟子たちが多く生まれていたので、その人々を力づけるために危険を冒してまで引き返したのです。
 パウロは「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(23節)と語っています。人間の歩みを聖書から見ると平穏無事な日々よりも試練や苦難、迫害の歴史がつきものです。多くの信仰者たちは言語に絶するような壮絶な目に遭っていますが、信仰を捨てるどころか、益々熱く燃えたのです(へブライ11:32~38)。パウロもその一人です。
 その根拠は「あなたがには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)主イエスのご生涯が「苦難」の極みである十字架を通して死を征服し、救いに至る道、「復活の勝利」を成し遂げられたから、この世のどのような苦難も打ち勝つことができます。苦難から栄光へと結びついているのが主イエスと共に歩む世界です。パウロもその身をもって体験してきたからこそ弟子たちに伝えたいと願ったのです。
 更に「勇気を出しなさい」と主イエスが仰せになる時には必ず「わたしだ」と、ご自身を示してくださっています。嵐の中、試練の中、主イエスを信じる者と共にいてくださいます。主イエスを救い主と信じる全ての人に与えられる恵みです。
 そうしてパウロはアンティオキアの教会に戻り、神がこれまで成してくださった恵みを報告しました。彼らは「こんなにひどい目にあった」と、言う事もできたでしょう。しかし彼らは自分たちの身に降りかかった災いや、自分たちの頑張りを報告する為に戻ったのではありません。神が異邦人に信仰の門を開いてくださったことなど、救い主イエス・キリストに対する生きた信仰を証明するためです(27節)。信仰者は、私が何をしたかではなく「神がこの私にしてくださった恵み」を語り、栄光を主に帰すことの幸いを知っています。

喜びで満たしてくださる神

使徒言行録14章8~20節

佐々木良子師

 パウロとバルナバの伝道の旅はリストラという地へと進んできました。これまで行く先々で様々な迫害等に遭遇してきましたが、今回は「・・・パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って・・・」(19節)と、記されているように、これまでとは比べ物にならないほど危機的状況に陥りました。しかし、パウロたちはどのような過酷な状況であろうとも、常に神の恵みの中を歩んでいますから人知では計り知ることのできない体験をしたのです。
 パウロたちはその地において生まれつき足の不自由な人を癒しました(8~10節)。その奇跡を見た群衆は彼らを神話の中の人物であるゼウスとヘルメスという偶像の神々に見立て、崇め奉ろうとしたのです(11~13節)。癒しは人間であるパウロたちの力から出たものではなく、あくまでも「神の恵み」によるもので神は人を用いてご栄光を顕される方です。
 パウロたちは衣を裂き自分たちも同じ肉体をもった人間で、神ではないことを示し、神の御業を証ししたのです。更にこの事を通して、群衆が偶像から離れて、唯一の恵み深い生ける神に立ち返るよう呼び掛けました(15~17節)。何とか事態を収拾したものの、以前パウロたちを迫害していたユダヤ人たちがやってきて、先ほどまでパウロたちを神々にしようとしていた群衆たちをも巻き込んで石を投げつける行為に及んだのです(19節)。
 パウロはこの出来事を、14年後に「第三の天に引き上げられた」と語っています。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。・・・彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」(コリント二12:2~4)。神の恵みがあまりにも偉大な故に、パウロ自身がこのことを通して英雄になることを恐れ、他人を装って記しているほどです。
 私たちの信じている唯一の神は、人の世界を超絶した絶大なお方です。神は石打ちで殺されるような目に遭遇したパウロを守ってくださり、そればかりではなく、誰も経験したことのない啓二を与えられました。
 信仰者はこのような神の恵みに出会わせて頂き、人知では計り知れない神の偉大さが次第にはっきりと分かるようになり、喜びに満たされて生きていきます。これからも永遠にそのように生かされていくのです。

勇敢になれる人

使徒言行録14章1~7節

佐々木良子師

 パウロとバルナバの伝道旅行は、エフェソやローマへの要路にあるイコニオンという所へと進んできました。いつものように福音を語ると「・・・大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った(2節)と、信仰に導かれる人々が起こされましたが、そこでも又、「・・・信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」(2節)と、記されています。
 読み手である私たちは「またか」と思ってしまいます。「宣教」「迫害」という言葉が対になっているパターンを使徒言行録から読み取ることができるといっても過言ではないと思います。
 しかし彼らは「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った・・・」(3節)とあります。ここで注目したいのは「それでも」とは「それだから、したがって」という言葉です。悪意を持つ人々が必ず現れ、逆風が吹きつけますが、だからこそ勇敢に語ったのでした。彼らのそのような大胆さ、力の源は「主を頼みとして」とあるように、自分たちの能力や経験を基としたのではなく、神への信頼からでした。
 信仰とは神への全き信頼です。聖書には至る所に「信頼せよ」とあります。「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(イザヤ書26:4)神への信頼のある所に、私たちに対する神の真実も尽きることはありません。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(へブライ人13:8)絶対的に変わることのない揺るがない神への信頼です。どのような時にも自分は神に愛されている、このことを信じ続ける限り、失望も絶望もありません。
 信仰者が指し示すことは、自分自身の力ではなく、又、不信仰な世界や不信仰な他者を批判することでもなく、慈しみと愛なる神から与えられている大きな恵みです。
 パウロたちは伝道する先々で、主イエスを受け入れない人々のむき出しの悪意に遭遇し、迫害されるという苦難の連続でした。しかし、彼らは神への絶対的な信頼に基づいて自らの召命に立ち続け、福音があまねく宣べ伝えられることを喜びとして、神の恵みの御手の中にあり続けました。ですから、悪意をもって迫害する者たちに対して無抵抗でいるだけでなく、積極的に慈しみの神から与えられた大いなる救いと恵みを勇敢に語り続けることができたのです。

主の言葉はその地方全体に

使徒言行録13章44~52節

佐々木良子師

 誕生間もない初代教会とその後約250年は、過酷な迫害の連続でした。しかし、主イエスに忠実な信仰者たちが命を賭けて信仰を守り、教会を守り、ついに勝利し、世界中に福音が宣べ伝えられました。私たちの教会が属するホーリネスの群もかつては国家から弾圧を受けましたが、決して屈しなかった信仰の先達者の命の下に、今の教会が存在しています。
 さて、キプロス宣教を終えたパウロとバルナバは、アンテオキアへと北上してきました。そこでも多くの人々がパウロの語るイエス・キリストの福音に熱心に耳を傾けることにより、ユダヤ人の指導者たちは「ひどくねたみ」(44~45節)人々を扇動してパウロたちを町から追い出したのです(50節)。「実はこの男は疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒動を引き起こしているもの」(24:5)と、その妬みは強烈なものでした。
 迫害され、アンテオキアでの宣教は中断せざるを得なくなり、パウロたちの敗北のように見えますが、そこにも神の知恵とご計画があったのです。これらの迫害によって、パウロたちの宣教は益々グローバルなものへと拡散することとなりました。
 「・・・わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」(イザヤ49:6)と預言されている如く。神の働きは人の企てなどによって阻まれることは決してないのです。先に救われる筈のユダヤ人たちは、自らの頑なさのために救いのチャンスを逃しましたが、これも神のご計画の内にユダヤ人に妬みをおこさせるためでした(ローマ11:11~12節)。
 「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし神の言葉はつながれていません。」(Ⅱテモテ2:9)教会の歴史は様々な迫害や挫折、多くの誹謗中傷という暗闇の中を通ってきました。しかしそこにこそ、復活の主の勝利の光が照らし続けられています。
 パウロたちは苦難の伝道旅行の出来事の中で、神の恵みの確かさを一歩一歩知ることとなりました。先ずパウロたちがこれを体験したのです。どんなに暗闇の中であっても、行き詰まりと思えても、神の光が消えることは決してありません。これが私たちに向けられた神の愛です。このことを苦難の中で体験できる信仰者は幸いです。

霊に燃えて主に仕える

ローマの信徒への手紙12章9~21節

佐々木良子師

 「怠らず、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(11節)
 主の年2016年、新しくスタートする私たちに与えられた御言葉です。神様のご期待に精一杯お応えしていきたいです。
 12章はキリストの救いをどのように実践していくか、具体的に記されています。そこで最初に主イエスは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。」(2節)と仰せられます。私たちはこの世に生きている限り、知らず知らずの内にこの世に流される生き方をしています。
 悪に抵抗する時ほど人間は不信仰になり、自らが悪魔的な人間になってしまうものです。このような時こそ信仰者としての生き方が求められています(21節)。その為に、この世に倣い、罪の中に生きている私たちに対して、心を新たにするようにと、主イエスは戒めておられます。「心を新たに」とは、主イエスに向き直すこと、心の方向転換を求めております。
 そこで具体的に「怠らず、霊に燃えて、主に仕えなさい。」(11節)と、あります。注目したいのは人間的に「不眠不休で頑張れ!」というのではありません。「聖霊」によって燃やされる時、心は燃えるのです。神の御愛が聖霊によって心に注がれる時、人の心は神に向かい熱心にさせられます。伝道者パウロは「肉は何の役も立たない」と厳しいことを語っていますが、肉=生まれながらの私たちは、時には罪の誘惑に負けて、この世に流されてしまうのです。しかし、主イエス・キリストの十字架の罪の赦しと救いと向き合っているなら、罪を犯さないばかりではなく、聖霊によって与えられた熱心によって、大きな喜びが湧き上がってきます。その結果、神と人とにお仕えしたいと心から願い、互いに愛し合い、励まし合い、感謝しながら教会が建て上げられていきます。
 この年、私たちの教会は創立90周年を迎え、又、新しい体制となり飛躍の年となります。この世に倣うことなく、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえながら、怠らずに霊に燃やされて、神と人とに仕えながら、新しい教会を建て上げてくことに期待しています。