勇敢になれる人

使徒言行録14章1~7節

佐々木良子師

 パウロとバルナバの伝道旅行は、エフェソやローマへの要路にあるイコニオンという所へと進んできました。いつものように福音を語ると「・・・大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った(2節)と、信仰に導かれる人々が起こされましたが、そこでも又、「・・・信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた」(2節)と、記されています。
 読み手である私たちは「またか」と思ってしまいます。「宣教」「迫害」という言葉が対になっているパターンを使徒言行録から読み取ることができるといっても過言ではないと思います。
 しかし彼らは「それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った・・・」(3節)とあります。ここで注目したいのは「それでも」とは「それだから、したがって」という言葉です。悪意を持つ人々が必ず現れ、逆風が吹きつけますが、だからこそ勇敢に語ったのでした。彼らのそのような大胆さ、力の源は「主を頼みとして」とあるように、自分たちの能力や経験を基としたのではなく、神への信頼からでした。
 信仰とは神への全き信頼です。聖書には至る所に「信頼せよ」とあります。「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩」(イザヤ書26:4)神への信頼のある所に、私たちに対する神の真実も尽きることはありません。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(へブライ人13:8)絶対的に変わることのない揺るがない神への信頼です。どのような時にも自分は神に愛されている、このことを信じ続ける限り、失望も絶望もありません。
 信仰者が指し示すことは、自分自身の力ではなく、又、不信仰な世界や不信仰な他者を批判することでもなく、慈しみと愛なる神から与えられている大きな恵みです。
 パウロたちは伝道する先々で、主イエスを受け入れない人々のむき出しの悪意に遭遇し、迫害されるという苦難の連続でした。しかし、彼らは神への絶対的な信頼に基づいて自らの召命に立ち続け、福音があまねく宣べ伝えられることを喜びとして、神の恵みの御手の中にあり続けました。ですから、悪意をもって迫害する者たちに対して無抵抗でいるだけでなく、積極的に慈しみの神から与えられた大いなる救いと恵みを勇敢に語り続けることができたのです。