1年の終りに臨んで

出エジプト記33章12~17節

 イスラエルの民を導いていた指導者モーセはシナイ山において、神との交わりの時を持っていました。しかし、イスラエルの民は山に登ったまま指導者が40日も帰ってこない上に、神が共におられないという不安に陥り、彼の帰りを待ちきれずに不安解消の為に金の子牛の偶像を作り、いけにえをささげ禁止されている偶像礼拝という大きな罪を犯した出来事が32章から記されています。
 モーセはこのように信仰がぐらつき、自分達の都合でしか神の事を考えられなくなっているイスラエルの民を導いていく事に対し絶望感に陥っていました。悩む彼に神は今一度任命の更新をされますが、モーセは約束の地がどんなに素晴らしくても、神がご一緒でなければ祝福も恵みもないと嘆きました(15節)。私達は自分の幸せを掴む為にいつの間にか神を忘れてしまいますが、モーセは何よりもさておいて神と共にいることこそが祝福だと断言しています。
 「わたしがみずから同行し、あなたに安息を与えよう」(14節)「わたしがみずから」とは遠くから見て指示されるのではなく、闘いの只中にいらしてくださり一緒に導き・支え・力付け・神の平安で包んでくださるという約束です。 私達は努力して精進して、神が共にいてくださるようになるのではなく、共にいてくださる為にイエス様がこの世にご降誕されたのがクリスマスです。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマスエルと呼ばれる。この名な神は我々と共におられるという意味である。」(マタイ1:23)神はイエス様を十字架につけるまで私達を愛し、生かすために命を与えてくださいました。その命を神の為に発揮できるよう育ててくださっております。このつたない命に既に神が生きておられ、伴ってくださっているのです。
 困難な時にとかく私達は神から見離されたと思いがちですが、私達の方から神を遠ざけているのです。「実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れておられません」(使徒17:28)苦しい時、試練の時に一人で静まって神に祈る事ができずに、イスラエルの民の如く仲間を作って行動を起こすのが世の常で、仲間と群れている事で安堵感を覚えるのです。「…静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある。しかし、お前たちはそれを望まなかった」(イザヤ30:15)人は繰り返しこのような失敗の歴史の中に身を置いています。しかし、このような只中に今年1年間も神の憐れみによって見捨てられなかった私達は感謝するのみです。

喜び溢れる人々

マタイによる福音書2章1~12節

 「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(10節)星に導かれて救い主イエス・キリストに出会い、喜びあふれて礼拝をお献げしたのは占星術の学者達でした。彼らは聖書では迷信とされ禁じられていた星占い師であり、又、異教徒の人々です。そのように当時のユダヤ社会では受け入れられない人々が神と出会う事等想像もできない事柄でした。神は全ての人を心にかけてくださり、ご自身を求める者に救いを与えられる方です。イエス・キリストのご降誕による恵みは、このように民族の壁を越えて全ての人々に与えられたもので、更に現代の全世界中の人々にも届け続けられています。
 イエス様を「ユダヤ人の王」(2節)と呼んでいますが、武力や権力で従わせしょうとする王とは違います。「…イスラエルの牧者」(6節)と譬えられているように、この世で行き先を見失って迷える人間を正しい道に導く為に十字架にお架かりになり、その命をささげてまで私達を愛してくださる王です。
 しかしこの喜ばしい王の御誕生を喜ぶ事が出来ずに、不安と恐怖に苛まれていたヘロデ王と、エルサレムの人々の姿があります(3節)。それぞれ理由は異なりますが共通点は、自分達の今の立場を守ろうとする事でした。占星術の学者たちとヘロデたちの姿は、私達の心の内にある二つの態度を象徴しているように見えます。希望の源、罪から救い出してくださるイエス様を追い続けようとする心と、今の自分を守る事に必死でイエス様に背を向けようとする心、この二つの面を持っていると言えるのではないでしょうか。
 イエス様を求めさえすれば、私達にも占星術の学者の如くにそれぞれに相応しい方法で神の導きが必ずあります。2013年を歩むにあたり、今の自分を守るのに必死になって不安に怯える者としてではなく、神に出会い前方に輝く無限大の祝福に与らせる者とさせて頂きたいものです。
 「…彼らはひれ伏して幼子を拝み…別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(11~12節)神と出会った者は礼拝する神の民とさせて頂き、今迄の自分の歩みとは全く違う歩みをします。教会において私達は週毎に礼拝をおささげしてイエス・キリストの喜ばしい知らせ=福音をお聴きします。神の御言葉が生きる指針となって新らしく造り変えられて、それぞれの場へと戻って行きます。来た時と何も変わらず同じ道を辿るような歩みを続けるのではなく、喜び溢れて別の道を通ってそれぞれの場へと帰って行く私達です。

クリスマスの出来事

マタイによる福音書1章18~23節

 1章の初めには、イエス様がお生まれになるまでの系図がありますが、人間の能力や優れた血筋が記されているのではなく、罪と嘆きの悲惨な歴史です。そのような暗闇から「自分の民を罪から救う」(21節)ために、神がイエス様をこの世に遣わされたのがクリスマスです。
 神はその為にヨセフとマリアを選ばれました。「…母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」(18節)そこにあるのは喜びではなく苦悩と葛藤でした。「聖霊」によるとは、神の力によるという事で、イエス様の御誕生は人間が生み出したものではなく、又、私達が受け入れる準備があるといった訳でもありません。人間の思いや常識を遥かに超える仕方で起こった、予想外の出来事がクリスマスです。
 当然ながらヨセフは悩み抜き、このような出来事を受け入れる事はできませんでしたが(19節)、「…恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」(21節)との神のお言葉に、自分の思いが覆されて神の御旨に従いました。自分の計画や決心にも拘らず、ヨセフ自身が、聖霊=神の力によってその判断や決心が変えられたのです。「ヨセフは正しい人であったので…」(19節)と記されていますが、ヨセフはそれまで自分の正しさを基準として生きていたと思われます。しかし彼は神の力に突き動かされて自分の正しさや、自分の思いを突き通す事ではなく、神の御思いに寄り添って歩んでいく神の御前にある正しさを知ったのです。そうして人は神という方が、この自分にとってどのようなお方かという事を体験して神を知っていく事になります。
 この世は自分の思い描いた通りの人生を歩む事を幸福といい、何にも動かされない「不動の境地」を求めて自分の正しさを全うしようとします。人間は本来、神に深く動かされて養われて生きていくもので、それを信仰の歩みといいます。それを拒否する事を罪と言います。そのような罪深い私達にも拘らず神はクリスマスにイエス様を送ってくださいました。「わたしは世の終りまで、いつもあなたと共にいる」(マタイ28:20)と、罪人である私達を救ってくださり寄り添い養い続けてくださっております。この世の中で何に出会い、何よって動かされていくかによって私達が生きる意味と価値が明らかにされていきます。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであたながたを満たし、聖霊の力によって希望にみちあふれさせてくださるように。」(ローマの信徒への手紙15章13節)

切り株から新しい命へ

イザヤ書11章1~10節

 「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く・・大地は主を知る知識で満たされる。・・・そのとどまるところは栄光に輝く」(6~10節)預言者イザヤが、メシア=救い主イエス・キリストが来る事によって、神の国=神の支配による永遠の平和がくると、希望の預言をしました。当時のイスラエルの民は罪の中で希望が見えない暗黒の時代を何とか生きている状況でした。今を生きる私達も同じで、弱肉強食のようなすさまじい世界の中に身を置き、全てのものが共存共栄できる世界等、夢物語のような光景です。しかしそれは人間が自分達で造る世界ではなく、神が与えてくださるものだと記されています。ダビデの子孫の中に与えられる新しい王であるイエス・キリストによって実現される新しい世界です。
 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。・・・」(1~2節)
 「わたしは、ダビデのひこばえ、その一族、輝く明けの明星である。」(ヨハネの黙示録22章16節)
 「ひこばえ」とは「切った株根から出た芽、樹木の切り株や根本から群がり生える若芽」という意味で、切り倒された切り株を土台とした所に神の国は芽生えて行きます。「木には希望がある、というように木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない。地におろしたその根が老い、幹が朽ちて、塵に返ろうとも」(ヨブ記14章7節)主イエスの家系はダビデの血統ですが、それまでのダビデ王朝という過去の輝かしい大木が、悔い改めと共に切り倒されて、神の憐れみと裁きを貫いてかろうじて残された切り株から全く新しい世界が造り上げられ、その中に私達も加えられているのです。
 神の国はこの世の生活の延長上に造られるものではありません。最初の古い木が切り倒されるように、私達の自分の思いや経験等が切り倒されて新しい生まれ変わりの世界、神にある平和の世界が造られます。新しい切り株、ひこばえとして、神は救い主イエス・キリストをこの世にお遣わしになったのが、クリスマスの出来事です。
 新しく生まれ変わるとは人生をやり直すのではなく、今迄の自分の生き方、考え方が切り倒されて神の力によってこの命がまるごと造り変えられる事です。悔い改めて神より新しいひこばえが与えられる事が求められています。

慰められよ、慰められよ

イザヤ書40章1~11節

 「慰めよ、呼びかけよ、見よ、」(1,6節)神は預言者イザヤを通して、敵国で捕虜の中にあったイスラエルの民に罪の赦しの時が来て祖国に帰れると、回復と希望を語られました。これを聞いた彼らは長い苦しみの中で、神は裁くだけだと、希望も信仰も失いかけていました。捕虜という境遇に圧倒されて、たとえ命が永らえても人生なんて草のごとく枯れてしまうと、虚無感に陥っていたのです(6~7節)。神はいったいどこにおられるのかと、苦難に直面している人に対して、慰めの原動力となるものはいったい何でしょうか。
 単に口でなだめられても立ち上がる事はできないものです。人は神の愛に触れ感謝に溢れた時、このお方に尽くし喜ばれたい、という思いによって起き上がらせて頂き慰められるのです。神の愛を知るとは自分の罪を知る事です。どうしようもない罪人のこの私を、神はこんなにも愛してくださっているという気づきが与えられるのです。十字架で死なれた主イエスの御姿が何にも勝る慰めです。「イエスは、わたしたちために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(Ⅰヨハネ3:16)
 虚無感に陥っていたイスラエル民族が立ち上がる事ができたのは、正に未来に現れるメシア=イエス・キリストによる罪の赦しの救いを先取りして、癒され慰められたのです。「…苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。と、罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(2節)その根拠は「…彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53:5)この僕がクリスマスにお生まれになるイエス・キリストである事を聖書は伝えています。
 イスラエルと全人類の罪の代わりに苦難を受けられたイエス・キリストの傷、苦しみが、立ち上がれない罪人を新しく生まれ変わらせ、神の慰めに生きる者とさせて頂きました。「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」(5節)今や誰もが、神と共に居るのを見るであろうと言われます。慰めと喜びに満ちた素晴らしい宣言で、今の私達にも告げられている罪の赦しの慰めと希望です。自分の現在の生活を神の赦しの言葉から捉えなおし、感謝する生活と変えられていくのがクリスマスの出来事です。イスラエルの民は主イエスを見ずとも十字架の赦しを信じて立ち上がっていきました。今の私達は主イエスのご降誕の事実を感謝しつつ、更なる慰めの言葉を聞き続けて生きていけるのです。