慰められよ、慰められよ

イザヤ書40章1~11節

 「慰めよ、呼びかけよ、見よ、」(1,6節)神は預言者イザヤを通して、敵国で捕虜の中にあったイスラエルの民に罪の赦しの時が来て祖国に帰れると、回復と希望を語られました。これを聞いた彼らは長い苦しみの中で、神は裁くだけだと、希望も信仰も失いかけていました。捕虜という境遇に圧倒されて、たとえ命が永らえても人生なんて草のごとく枯れてしまうと、虚無感に陥っていたのです(6~7節)。神はいったいどこにおられるのかと、苦難に直面している人に対して、慰めの原動力となるものはいったい何でしょうか。
 単に口でなだめられても立ち上がる事はできないものです。人は神の愛に触れ感謝に溢れた時、このお方に尽くし喜ばれたい、という思いによって起き上がらせて頂き慰められるのです。神の愛を知るとは自分の罪を知る事です。どうしようもない罪人のこの私を、神はこんなにも愛してくださっているという気づきが与えられるのです。十字架で死なれた主イエスの御姿が何にも勝る慰めです。「イエスは、わたしたちために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。」(Ⅰヨハネ3:16)
 虚無感に陥っていたイスラエル民族が立ち上がる事ができたのは、正に未来に現れるメシア=イエス・キリストによる罪の赦しの救いを先取りして、癒され慰められたのです。「…苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた。と、罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」(2節)その根拠は「…彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53:5)この僕がクリスマスにお生まれになるイエス・キリストである事を聖書は伝えています。
 イスラエルと全人類の罪の代わりに苦難を受けられたイエス・キリストの傷、苦しみが、立ち上がれない罪人を新しく生まれ変わらせ、神の慰めに生きる者とさせて頂きました。「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」(5節)今や誰もが、神と共に居るのを見るであろうと言われます。慰めと喜びに満ちた素晴らしい宣言で、今の私達にも告げられている罪の赦しの慰めと希望です。自分の現在の生活を神の赦しの言葉から捉えなおし、感謝する生活と変えられていくのがクリスマスの出来事です。イスラエルの民は主イエスを見ずとも十字架の赦しを信じて立ち上がっていきました。今の私達は主イエスのご降誕の事実を感謝しつつ、更なる慰めの言葉を聞き続けて生きていけるのです。