安心しなさい。恐れることはない

マルコによる福音書6章45~52節

 「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」(52節)理解するとは知識で分かるものではなく主イエスが語られた事等が、人の心に宿りその人を生かしていく事です。その過程で人は何度も失敗したり、又、自分は何と神の恵みが分からない者とがっかりしますが、つまずきながら主イエスの恵みが深く心に刻み込まれて、分かっていくものです。
 弟子達はつい先程までは、主イエスが彼らの持っていた僅かなパンと魚を用いて奇跡を行ってくださった恵みの只中にいました。しかし今や、主イエスに強いられて舟に乗せられ逆風の中で漕ぎ悩み、神の恵みはすっかり忘れ去り、あたかも神無き世界のようなどん底の世界に陥ったのです。
 主イエスは山で祈っておられましたが、彼らの様子を当然ご存知だったのです。「…夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い…」(48~49節)目の前の逆風の恐怖で心が鈍くなった彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(50節)と臨んでくださいました。「わたし」とは「わたしは神である」という事です(出エジプト3:14)。「通り過ぎようとされた」とありますが、困難な中に一緒に埋没する神ではなく、神である主イエスがその先を自ら先だって、私達を困難から導いてくださるお姿です。
 試練を目の当たりにすると、神に祈る所か不信仰に陥る私達です。「主がこの場所におられるのに知らなかった」(創世記28:16)と、ヤコブが語っているように旧約時代から同じ失敗を繰り返す人類の歴史が聖書に記されています。しかしその都度「神である私がいるではないか、大丈夫、恐れることはない」と、現代の私達に今も生きて働いておられる神が手を差し伸べておられます。人を押し潰そうとする波はいつも周囲にあって漕ぎ悩む弱い私達です。しかし復活された主イエスがいつも共にいてくださり、必要な助けを与えてくださいます。
 主イエスが期待されているのは立派な強い信仰者になる事ではなく、溺れて沈みそうな中で「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」という主イエスの御声を聞き続け、「助けてください」「わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121:2)と主を求め続ける事です。荒波の真ん中に立っておられる救い主イエスを見出しさえすれば私達は生きて行けるのです。だから大丈夫なのです。決して溺れることはありません。

あなたたちは神の子

ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節

 パウロは、ユダヤ主義者に惑わされたガラテヤのキリスト者に、律法の実行によらず、信仰によって義とされ救われる「真の福音」キリストの福音へ軌道修正するように本書簡を書き送った。パウロのこの独特の教理は体系的にロマ書に記され、のちに宗教改革者マルチン・ルターによって「神の義」が発見され、信仰義認と呼ばれる重要な教理となった。
(1)、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子である。(26節)
「キリストに結ばれて(エン・クリストー)」とは「キリスト・イエスに在りて(不動)」の意であり、キリストに漬け込まれて私たちはキリストの香りを放つ者となる。主イエスこそ唯一の「神の子」(2:20)だが、土塊に過ぎない私たちは皆、信仰という手段によって主に在る者とされ、恵みのうちに「神の子」とさせて頂いたのである。神の子としての自覚を持とう。
(2)洗礼を受けてキリストの中へ没入し、、キリストを着ている。(27節)
27節の「キリストに結ばれた(エイス・クリストン)」は「キリストの中へ埋没する(中心へ向かって動く) 」の意である。キリストの恵みの外にいた私たちは、洗礼を受けることによってキリストのど真ん中に埋没することが出来た。罪ある身体はキリストの真白き霊的衣に覆い尽くされ、罪なき者と見なして頂いたのである。洗礼の霊的重要性を覚え、主の十字架の御業に感謝しよう。
(3)何一つ差別なく、、キリスト・イエスにおいて一つである。(28節)
私たちは皆「主に在りて(エン・クリストー)」一つであり、天においても地上の教会においても、格差や差別は微塵もなく、神の子たちは主イエス・キリストにおいて一体である。
(4)もしキリストのものなら、アブラハムの子孫、約束による相続人である。(29節)
私たちは信仰によって義とされ、信仰によってアブラハムの子孫と見なされ、信仰によってアブラハムの子孫に約束された祝福に与ることが出来る。但しその条件は私たちがキリストのものであることである。果たして私たちは、信仰によってキリストにしっかり結ばれた神の子となっているか?洗礼を受けてキリストへ完全に埋没してキリストの霊の衣で罪を覆い尽しているか?教会はキリスト・イエスにおいて差別なく一つとなっているか?大丈夫、主が必ず導いて下さる。日々、信仰を吟味しつつ、神の子として与る恵みの豊かさを感謝し、福音を宣べ伝え、世に遣わされた神の子の役割を全うしよう。主に在りて

分ければ分けるほど豊かになる

マルコによる福音書6章30~44節

 主イエスは弟子達が持っている僅かな5つのパンと2匹の魚を用いて、奇跡を行われました。彼らの手元にあったものは乏しいものでしたが、主イエスは敢えて「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)と仰せられました。現実をみるなら不可能な話です。しかし、彼ら自らの手で目の前のお腹をすかした5千人の人々の必要を満たし、更に12の寵いっぱいに残ったほどだと記されています(41~44節)。主のご栄光を現す為に、彼らは乏しかったからこそ主イエスは用いたのです。
 「パンは幾つあるのか。見て来なさい。・・・弟子たちは確かめて来て言った。五つあります。それに魚が二匹です。」(38節)主イエスはまず弟子達が持っている物を確認させました。彼らは僅かなものしか手元になく、自分達では到底どうする事もできない現実を目の当たりにしました。しかし、弟子達は何も持っていなかったのではなく、極々僅かな物は持っていました。人間の乏しい現実を、憐れみをもって豊かに用いて御業を行ってくださるのが神です。そうして主イエスが全ての人々を見渡せるように座らせて(39~40節)、「五つのパンと魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。」(41節)と、その場にいた全ての人達に、主イエスの恵みを彼らの手で手渡した事が記されています。主イエスの恵みは、私達自身の手で人々に配る時に大きな恵みへと拡大していきます。
 この奇跡の直前に主イエスは「…大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ…」(34節)と、神の御手から迷い出て荒れ野をさまよっている子羊のような人間に対して、ご自身の腹わたが痛むほど同情してくださっています。「あなたの必要はいつも私の前にある。いつも養う用意がある」と、キリストの目の前にある人間を慈しみ、助けの御手を差し出しておられます。
 神の憐れみと偉大な力によって生きようとする者の為に、主イエスはご自身の命を惜しまず、十字架にお架かりになってその身を与えてくださいました。食べて無くなるこの世のパンではなく、主イエス御自身の貴い御身体を、私達を生かす為の永遠の命のパンとして与えてくださいました(ヨハネ6:22~59)。今度は私達自身の手で、主イエスの永遠の恵みを隣人に配る者として用いたいと願っておられます。乏しい私達だからこそ憐れんでくださり、主の御栄光の為に用いてくださいます。恵みは分ければ分けるほど豊かになっていきます。

風に揺れる思い

マルコによる福音書6章14~29節

 ヘロデ大王の息子で、当時の権力者ヘロデ王は、自身の犯した罪を洗礼者ヨハネに責められ、悔い改めを迫られた事に対して恨み、殺したいと思っていましたがためらっていました(17~19節)。それはヨハネが正しい聖なる人である事を知っていたからです(20節)。しかし彼は宴の席で自分の権威を示し、軽はずみな約束をしてしまった為に、自分の意志とは裏腹にヨハネの首をはねなければならない状況に追いやられたのです(21~25節)。その時の心の葛藤の様子が記されています。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」(26~27節)。
 心が揺れ動きながらも最終的には「権力・立場・強さ」を奪われる事を恐れ、ヨハネの命を奪う結果となりました。殺す事は正しい事ではない事を知っていながらも、彼は虚栄心に支配され人々の目を恐れ罪を重ねたのです。ヘロデと同じような人物を思い浮かべます。「ピラトは群衆を満足させようと思って・・・十字架につけるために引き渡した」(15:15)ピラトも自分の本意とは裏腹に、自分を守る為に主イエスを引き渡してしまったのです。ヘロデもピラトも共通する事は「神の前にある自分」ではなく「人の前にある自分」でした。
 人の目を恐れ、自分の気に入らない者を黙らせて自分の思いを押し通す罪が人間にはあります。そのような弱い自分を知っていても、意地を張り素直に悔い改める事ができず、良心と悪意が揺れ動く罪の支配に苦められている私達ではないでしょうか。しかし、そのように罪の奴隷になっている者を立ち直らせ、神の限りない赦しに与らせてくださるのが、イエス・キリストの十字架です。主イエス御自身は最後までご自身の栄光を捨て、罪の奴隷となっている私達の僕として仕えてくださり罪に勝利されました。どのような罪の中にあろうとも、恥ずかしくて顔を上げる事ができないような者であろうと、キリストの愛が滅びから救ってくださいます。
 ダビデという王は姦淫の罪・殺人の罪を重ね、この世の見方をすれば醜い人間でした。しかし罪を指摘された彼は、権威という偉さを脱ぎ捨て、恥をさらけ出して神の御前に伏し「憐れんでください」と嘆き、救いへと導かれました(詩編51)。既に神の前に留まらせてくださる神の愛が私達に差し出されていますから、心が揺れ動いても「こんな私を憐れんでください」という告白と共に「この罪を赦してくださることを信じます」と十字架の元に戻してくださいます。