風に揺れる思い

マルコによる福音書6章14~29節

 ヘロデ大王の息子で、当時の権力者ヘロデ王は、自身の犯した罪を洗礼者ヨハネに責められ、悔い改めを迫られた事に対して恨み、殺したいと思っていましたがためらっていました(17~19節)。それはヨハネが正しい聖なる人である事を知っていたからです(20節)。しかし彼は宴の席で自分の権威を示し、軽はずみな約束をしてしまった為に、自分の意志とは裏腹にヨハネの首をはねなければならない状況に追いやられたのです(21~25節)。その時の心の葛藤の様子が記されています。「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」(26~27節)。
 心が揺れ動きながらも最終的には「権力・立場・強さ」を奪われる事を恐れ、ヨハネの命を奪う結果となりました。殺す事は正しい事ではない事を知っていながらも、彼は虚栄心に支配され人々の目を恐れ罪を重ねたのです。ヘロデと同じような人物を思い浮かべます。「ピラトは群衆を満足させようと思って・・・十字架につけるために引き渡した」(15:15)ピラトも自分の本意とは裏腹に、自分を守る為に主イエスを引き渡してしまったのです。ヘロデもピラトも共通する事は「神の前にある自分」ではなく「人の前にある自分」でした。
 人の目を恐れ、自分の気に入らない者を黙らせて自分の思いを押し通す罪が人間にはあります。そのような弱い自分を知っていても、意地を張り素直に悔い改める事ができず、良心と悪意が揺れ動く罪の支配に苦められている私達ではないでしょうか。しかし、そのように罪の奴隷になっている者を立ち直らせ、神の限りない赦しに与らせてくださるのが、イエス・キリストの十字架です。主イエス御自身は最後までご自身の栄光を捨て、罪の奴隷となっている私達の僕として仕えてくださり罪に勝利されました。どのような罪の中にあろうとも、恥ずかしくて顔を上げる事ができないような者であろうと、キリストの愛が滅びから救ってくださいます。
 ダビデという王は姦淫の罪・殺人の罪を重ね、この世の見方をすれば醜い人間でした。しかし罪を指摘された彼は、権威という偉さを脱ぎ捨て、恥をさらけ出して神の御前に伏し「憐れんでください」と嘆き、救いへと導かれました(詩編51)。既に神の前に留まらせてくださる神の愛が私達に差し出されていますから、心が揺れ動いても「こんな私を憐れんでください」という告白と共に「この罪を赦してくださることを信じます」と十字架の元に戻してくださいます。