杖一本の力

マルコによる福音書6章6b~13節

 「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして下着は2枚着てはならないと命じられた。」(8~9節)主イエスはまだ経験もない弟子達を伝道の為に派遣されました。伝道とは、神に背いている人々を、悔い改めさせて神に立ち帰えるように、その道備えのお手伝いをする事です(12節)。その際、弟子達が許された持ち物は最低限のものでした。主イエスから、唯一与えられたものは「汚れた霊に対する権能」でした(7節)。
 一見無謀に見えますが、伝道は神の御業で人間の主張や経験では為し得る事ではありません。人間側に必要な事は、無力なこの私に神の権威が臨んでくださる事を祈り、語るべき御言葉の導きを待ち望む事です。「…わたしは自分勝手に語ったのではなく…言うべきことと、語るべきことをお命じになった…」(ヨハネ12:49)あくまでも主体は神で、私達は後をついて行くだけです。
 それでも神の福音・救いを受け入れてもらえない場合がありますが、その時は誇り高く立ち去れば良いと仰せられます。「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証として足についた埃を払い落しなさい」(11節)虚しさ、悲しみに投げ込まれた時、人は初めて謙虚になってキリストと結ばれて、新たな力を頂く為に祈ります。苦しみの中でしか与えられない神の力を体験させて頂き、そこから本物の伝道が始まるのです。伝道は決して失敗したのではありません。蒔かれた種も労苦も無駄にはなりません。今を絶望するのではなく、前に前に踏み出しながら、どこまでも出かけて行くのです。
 伝道の結果に一喜一憂しますが、主イエスによって派遣されるのですから、主が御業を途中で断念したり、放棄したりなさいません。人の予想や予測を遥かに超えて必ず働いてくださいますから、委ねて感謝と喜びを持って主の業のお手伝いをさせて頂くのです。キリスト者は罪から救われてそこが終点ではなく、そこを通過点として人々をキリストに導く為に進んで行きます。
 しかし自分が抱えている問題がいっぱいで、伝道まで手が回らないと思いがちですが、そのような状況にあるからこそ、十字架の赦しと復活の喜び・永遠の命を語らせて頂くのです。罪赦された溢れる喜び・希望、キリストから与えられるあらゆる恵みを他の人々に運ぶ運搬人となって、キリスト者に与えられている特別な光栄ある務めの中で、自らの問題から癒されていきます。

イエス様故郷に帰る

マルコによる福音書6章1~6a節

 「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」(5~6節) 主イエスはご自身の故郷のナザレで、神のみ言葉を語られ、奇跡を起こされましたが、そこには人々の不信仰しかありませんでした。
 しかし、この出来事の直前、ガリラヤ湖沿岸では身体が蝕まれ財産の全てを失った女に対して「あなたの信仰があなたを救った」(5:34)と仰せられ、又、会堂長の娘を甦らせる等、数々の奇跡を起こされ、人々は驚きのあまり我を忘れたとあります(5:35~43)。「不信仰と信仰」を垣間見る気がします。
 ナザレの人々は主イエスに関して「大工の子ではないか…」(3節)と、表現しています。主イエスが語られる御言葉、行われる奇跡を神の恵みとして受け取るのではなく、人間イエスの部分だけを見て、自分の経験・知識を絶対化して自分達と同じ枠の中に主イエスをはめ込んでしまったのです。主イエスを自分の物差しで、自分と同質のものとして見ている限り信仰は生まれません。主イエスよりも、自分の知識や経験から脱する事ができずに主イエス御自身を軽んずるなら、神の働きは妨げられ、主イエスの恵みも祝福も損なってしまいます。自分の思いが、いかに危ういものかという事を教えられます。
 このように不信仰とは神の恵みを自分の知識の枠の中に押し込め、自分という物差しから抜け出せない事です。これに対して信仰とは、5章に記されているように、身体が蝕まわれて全ての知識や財産もなく、為す術がなくなり空っぽになって、自分の身を主イエスに献げ出した女のように、自分を全て預ける事だと言う事が、本日の箇所と対比されて浮き上がって見えてきます。
 ナザレの人々のように、主イエスを神の子として受け入れないのがこの世です。「言(主イエス)は、自分の民のところへ来たが、民はうけいれなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:11~12)しかし、神はそのような不信仰な人間を断罪するのではなく、主イエスが十字架の道を歩んでくださり、十字架の上でその身で神の愛を示され、不信仰な罪人を信じる者へと変えてくださいました。
 神はすべてをご存知で不信仰と不義に対して怒りを示されますが、その怒りの中には、限りない愛と忍耐をもって全ての人を信じる者へと導かれる、御意志が働かれています。この愛に常に我を忘れるほどの驚く者でありたいです。

主イエスは父の家に

ルカによる福音書2章39~52節

 ここは少年イエスに纏わる唯一の聖書箇所であり、御子は若干12歳にして「神の子」の片鱗を示された。過越祭の宮詣でを終えた帰路中、我が子の失踪に気付いた両親は、必死になって捜索し、エルサレム神殿に我が子を見出して叱責した。するとイエスは不思議な言葉を語った。
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(49)
 エルサレム神殿を「我が父の家」と呼ぶことは自身を“神の子”とするに等しかったが、神殿に集う学者たちは未成年(13歳未満)の戯れ言としてイエスの言葉を聞き流した。しかし、教会に集う私たちキリスト者はこれを聞き流してはならない。主イエスは「父なる神の独り子」であり、その十字架によって私たちを贖われた救い主である。私たちにとって「父の家」とは「天の御国」であると同時に「教会」である。教会とは建物ではなく、二人または三人が御名によって集まるところを指し、そこには必ず主イエスが居られる(マタ18:20)。
 ところが私たちは、教会生活の中で神を見ずに人を見て躓くという経験を何度もしてきた。兄弟姉妹に罪を見出し、目くじらを立て、或いは落胆し、神を見失い、キリストを探し求めて彷徨い、世の様々な悪や災いを見て愕然とし、再び教会に戻ってきた方も少なくない。そんな私たちに主は、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」と言われる。
 教会こそ罪人の集う所であり、よくよく霊の目を凝らすならば罪人なる兄弟姉妹の背後には必ず十字架のキリストが居られ、私たち自身の背後にも贖いの主が居られることに気付く。私たちが敬虔さという装いを脱ぎ捨て、互いに罪を告白する時、互いの罪の力は消え失せ、許し合い愛し合う兄弟姉妹の集う真の教会となる。再臨の主によって携挙され、真の神の家に住まう恵みの約束を覚えつつ、主イエスの御身体なる教会に集い、神を賛美し感謝と祈りを献げよう。主はここに居られる。在主

イエス様が憐れんでくださる

マルコによる福音書5章21~43節

 神の御計画と主イエスの導きは何と憐れみに満ちておられる事でしょう。本日の箇所には二つの奇跡物語が記されています。共通する事は苦しみと悲しみの中で主イエスに救いを求めていますが、そこにある思いを超えた所で働かれる、全知全能の計り知れない、隠れている神の恵みが示されています。
 癒される術のないまま、12年間も血が止まらない病を抱えた女の最後の望みは、人々に紛れ込んで密かに主イエスに癒される事でした。彼女はたちまち癒されましたが、主イエスは敢えてその女に名乗り出るように捜されました。せっかく癒された彼女は、更なる耐え難い苦痛となったのです。ユダヤの当時の掟では、彼女の病は「汚れた病」と考えられ世間から隔離状態においやられていましたから(レビ記15:25~32)、人前に出る事など決して許される事ではなかったからです。まして主イエスに触れましたからとんでもない事件です。
 主イエスの行為は残酷に思えますが、神の救いは癒された所で完結されるものではない事を教えておられます。それは信仰ではありません。癒されて感謝して救い主のふところに飛び込んで、そこから信仰が始まります。故に敢えて主イエスはこの女と顔と顔を合わせて関係を持つ事を望まれました。神との関係は群衆に紛れるようなものではなく「汝と我」1対1の関係です。神は私達の痛み、苦しみ、恥、弱さ、罪も全ての問題をご自分の痛みとして担って下さるお方ですから、先ず神の御前に全てをさらけ出す事です。私達はこの御方に知られている事を喜びとして安らぎが与えられます。そうした時、初めて信仰が与えられ、人の目を恐れる事なく安心して恐れから解放されるのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい…」(34節)
 恥をもいとわず、主イエスの御前に進み出た彼女の信仰が救ったのです。
 この癒しを施している内に、救いを求めていた会堂長の娘のヤイロは亡くなってしまいました。しかし主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と仰せられ、周りの人々は「あざわらった」(40節)と記されています。知識や経験をもとに、キリストの十字架と復活を信じる事ができない人々の姿です。主イエスはそのような人間的な危うい信仰心を全て払拭される為に、敢えて癒しは行わずに亡くならせておいて、復活の奇跡を為さいました。信仰とは、小手先の問題を解決すような自分の都合の良いものではなく、人の常識が覆されるものです。神の前に進み出て1対1で向き合い無条件にただ信じるのです。

イエス・キリストこそ私の救い主

マルコによる福音書5章1~20節

 何か分からない力に支配されどうにもならない重圧の中、苦しみに押し潰されるような経験をしたことがあると思います。人間のコントロールを超えた力に振り廻され、精神を不安定にする力と言いえ換える事もできます。そのような力を聖書では「汚れた霊・悪霊」と表現しています。
 本日の箇所ではこのように汚れた霊に取りつかれて、一人の人間として認めてもらえず、墓場でしか生きる場所がなかった男が登場します。人との交わりから隔離され、鎖でつながれた足枷をも引き裂き、自分で自分を傷つける生き方しかできませんでした(3~5節)。しかし、主イエスは「汚れた霊、この人から出て行け」と命じられ(8節)、「人が服を着、正気になって座って」と、失われていた命が回復された事が記されています(15節)。「服を着て」とは、正常な人間として社会生活と人間関係が回復した事を示していますが、単にあるべき姿に戻ったというよりも、主イエスによって、かけがえのない者として見出された事を私達は発見するのです。
 「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」(7節)男を通して悪霊が発した言葉です。悪霊が恐れるのは、主イエスの権威ある言葉です。1~12節のやりとりに注目すると、主イエスと悪霊の一騎打ちです。弟子達ですら出る幕はありませんでした。人間が為す術は何もない状況の中、対抗できるのは神の権威のみです。その為に「向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(1節)と、主イエスの方から、悪の只中のこちら側においでになりご自身が闘ってくださったのです。喜ばしき勝利です。
 しかし、自分達の財産である豚を守る事に必死で、この救いを喜べず主イエスを追い出そうとしている人々がいます(15~17節)。彼らはかつての汚れた男と違い、豚を飼育してまともに働き、まともな人間と思っていたでしょうが、墓場に住んでいた男と同じで、神なき世界に住んでいるこの世の姿です。
 「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8:36)神なき世界は、死で終わりの墓場に居るような世界と同じです。主イエスの罪の赦しによる命に与る場が私たちの居場所で、そこから全てが始まります。かつて悪霊にとりつかれた男に「主が憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」(19節)と、主イエスは仰せられました。私達にも与えられた使命で、伝道の業を担っていく私達です。