イエス様故郷に帰る

マルコによる福音書6章1~6a節

 「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。」(5~6節) 主イエスはご自身の故郷のナザレで、神のみ言葉を語られ、奇跡を起こされましたが、そこには人々の不信仰しかありませんでした。
 しかし、この出来事の直前、ガリラヤ湖沿岸では身体が蝕まれ財産の全てを失った女に対して「あなたの信仰があなたを救った」(5:34)と仰せられ、又、会堂長の娘を甦らせる等、数々の奇跡を起こされ、人々は驚きのあまり我を忘れたとあります(5:35~43)。「不信仰と信仰」を垣間見る気がします。
 ナザレの人々は主イエスに関して「大工の子ではないか…」(3節)と、表現しています。主イエスが語られる御言葉、行われる奇跡を神の恵みとして受け取るのではなく、人間イエスの部分だけを見て、自分の経験・知識を絶対化して自分達と同じ枠の中に主イエスをはめ込んでしまったのです。主イエスを自分の物差しで、自分と同質のものとして見ている限り信仰は生まれません。主イエスよりも、自分の知識や経験から脱する事ができずに主イエス御自身を軽んずるなら、神の働きは妨げられ、主イエスの恵みも祝福も損なってしまいます。自分の思いが、いかに危ういものかという事を教えられます。
 このように不信仰とは神の恵みを自分の知識の枠の中に押し込め、自分という物差しから抜け出せない事です。これに対して信仰とは、5章に記されているように、身体が蝕まわれて全ての知識や財産もなく、為す術がなくなり空っぽになって、自分の身を主イエスに献げ出した女のように、自分を全て預ける事だと言う事が、本日の箇所と対比されて浮き上がって見えてきます。
 ナザレの人々のように、主イエスを神の子として受け入れないのがこの世です。「言(主イエス)は、自分の民のところへ来たが、民はうけいれなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:11~12)しかし、神はそのような不信仰な人間を断罪するのではなく、主イエスが十字架の道を歩んでくださり、十字架の上でその身で神の愛を示され、不信仰な罪人を信じる者へと変えてくださいました。
 神はすべてをご存知で不信仰と不義に対して怒りを示されますが、その怒りの中には、限りない愛と忍耐をもって全ての人を信じる者へと導かれる、御意志が働かれています。この愛に常に我を忘れるほどの驚く者でありたいです。