イエス様が憐れんでくださる

マルコによる福音書5章21~43節

 神の御計画と主イエスの導きは何と憐れみに満ちておられる事でしょう。本日の箇所には二つの奇跡物語が記されています。共通する事は苦しみと悲しみの中で主イエスに救いを求めていますが、そこにある思いを超えた所で働かれる、全知全能の計り知れない、隠れている神の恵みが示されています。
 癒される術のないまま、12年間も血が止まらない病を抱えた女の最後の望みは、人々に紛れ込んで密かに主イエスに癒される事でした。彼女はたちまち癒されましたが、主イエスは敢えてその女に名乗り出るように捜されました。せっかく癒された彼女は、更なる耐え難い苦痛となったのです。ユダヤの当時の掟では、彼女の病は「汚れた病」と考えられ世間から隔離状態においやられていましたから(レビ記15:25~32)、人前に出る事など決して許される事ではなかったからです。まして主イエスに触れましたからとんでもない事件です。
 主イエスの行為は残酷に思えますが、神の救いは癒された所で完結されるものではない事を教えておられます。それは信仰ではありません。癒されて感謝して救い主のふところに飛び込んで、そこから信仰が始まります。故に敢えて主イエスはこの女と顔と顔を合わせて関係を持つ事を望まれました。神との関係は群衆に紛れるようなものではなく「汝と我」1対1の関係です。神は私達の痛み、苦しみ、恥、弱さ、罪も全ての問題をご自分の痛みとして担って下さるお方ですから、先ず神の御前に全てをさらけ出す事です。私達はこの御方に知られている事を喜びとして安らぎが与えられます。そうした時、初めて信仰が与えられ、人の目を恐れる事なく安心して恐れから解放されるのです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい…」(34節)
 恥をもいとわず、主イエスの御前に進み出た彼女の信仰が救ったのです。
 この癒しを施している内に、救いを求めていた会堂長の娘のヤイロは亡くなってしまいました。しかし主イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい」(36節)と仰せられ、周りの人々は「あざわらった」(40節)と記されています。知識や経験をもとに、キリストの十字架と復活を信じる事ができない人々の姿です。主イエスはそのような人間的な危うい信仰心を全て払拭される為に、敢えて癒しは行わずに亡くならせておいて、復活の奇跡を為さいました。信仰とは、小手先の問題を解決すような自分の都合の良いものではなく、人の常識が覆されるものです。神の前に進み出て1対1で向き合い無条件にただ信じるのです。