極上の癒し

マルコによる福音書2章1~12節

 主イエスによる病人の癒しの記事が続いていますが、その目的は単なる癒しではなく、神の深い御思いが現されております。本日の箇所は癒しを求めに来た人々に対して、主イエスは「あなたの罪は赦される」(5節)と、罪の赦しの宣言をされました(5節)。私達が先ず求めなくてはならない事は、現在の目に見える問題の解決ではなく、罪の赦しが最も重要である事を示しています。
 病は人を縛り付け苦しみを伴いますが、「罪」とは、罪の自覚のない人は痛みを感じませんから罪の赦しを求めようとしません。しかし「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)と、罪の赦しのない所は滅びの道、死しかないと断言しています。罪の重荷に抑えられた私達はここに記されている足腰の立たない病人のようなもので、罪という病に縛られている姿と言っても良いと思います。
 罪の結果、私達は誰もが死を通らなくてはなりませんが、その事に対してどうしようもない憤りを覚えられたのが、主イエスです(ヨハネ11:33~35)。ご自身の命を十字架につける迄、罪人である私達を愛しておられる主イエスの切実な願いは、全ての人が罪から救われ、永遠の命を得て天国に行く事です。「罪の赦しのあるところ、そこに命と祝福がある」と宗教改革者ルターが語っている如く、罪の赦しは人間にとって何よりも替え難い極上の癒しです。
 罪の赦しは神の恵みによって無条件に誰にでも与えられるものですから、「主イエスの十字架によって赦されて祝福された者」と、確信をもって感謝して歩む事が私達の本来の姿です。全ては罪の救いからスタートしていきます。天国行きの切符を頂くなら、病人の方であろうと全ての人が神に向かって積極的な生き方に変えられて行きます。「罪赦されて天国行きの切符を頂き祝福の中を生きて行くか、何の保証もない滅びの道を生きていくか」あなたはどちらを選ぶか、と神は問うておられます。病が癒されないで天国に行く方もおられますが、「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。」(12節)の如く、死を越えた永遠の命を頂いて天国に向けて出発していきます。
 ここに記されている4人の男達の何としても病の男を「主イエスの元に連れていきたい」という熱心さが主イエスの心を動かされました(5節)。私達は無力ですが、まだ神を知らないで死に向かって滅びの道を歩んでいる人々を神の元へとお連れする事はできます。その場が教会です。今日も罪の赦しの宣言、極上の癒しを主イエスは与えたいと、祝福する人を待っておられます。

きよくなれ

マルコによる福音書1章35~45節

  私達は日々「主よ、」と祈り求めますが、ある意味でご利益信仰になっている危険性があります。病を癒す奇跡やご利益を求めがちですが、先ず私達が求めなくてはならないものは罪から癒される事です。
 主イエスは「福音」を宣べ伝えると同時に数々の癒しや奇跡を行い、カリスマ的な存在になり(21~28節)、人々は主イエスが祈っておられる場所に追って行き、癒して頂こうと待ち構えていました(35~37節)。名声や評判に埋もれては罪人を救い出すというご自身の使命を全うする事ができませんから、人々を残してその場を去りました。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」(38節)
 昨日迄の人々は癒され、今日来た人々は取り残されるという事は不平等のように思わされます。又、同じ病でも癒される人、そうでない人もおられます。神である主イエスは全ての能力を絶対的に持っておられ、癒し得ないものはありませんが、その能力をいつも現されるのではありません。癒されない場合もあります。偉大な伝道者パウロ自身も祈りましたが、応えられませんでした。しかし、弱さが別の形で伝道の力となりました。癒されなくとも必ず最善は為されます。神の癒しについて人間側から強要する事はできません。癒しは信ずる者の特権ではなく、主イエスの恩恵として与えられるものです。
 40節以下に別の町で重い皮膚病の人が主イエスのもとに来て、ひざまずいて祈っている様子が記されています。当時の慣例によりそのような病の人は人前で「私は汚れた者です」と大声で叫ぶ事が義務付けられていました。病気の上に更にそのような規制は耐え難い事で運命を呪った事でしょう。私達は見た目には健康のようですが、この重い皮膚病の人が暗黒の中に生きていたのと同じようなものです。罪という病の為に呪われた暗闇の人生を歩いているのです。しかし、その事に気づき彼が民衆に叫んだように、私達は主イエスに「私は汚れた者です」と、告白しましょう。更に「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)と、主イエスに無条件にお委ねする事により「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、よろしい、清くなれ」(41節)と、汚れた罪から必ず癒して頂けます。キリストの十字架による罪の赦しを信じるならば、全ての人に平等に与えられる癒しは罪からの癒しです。「清くなれ」という赦しの事は全ての人に与えられています。

イエスの洗礼

ヨハネによる福音書1章29~34節

●「イエスの洗礼」には3つの意味がある。
[第一]「イエスの洗礼」とは主イエスがバプテスマのヨハネから水による悔い改めの洗礼(共観福音書参照) を受けたこと。罪なき神の子が公生涯の始めに私たち罪人と同じ立場に立たれたのである。主に感謝。
 その直後、ヨハネは神の黙示『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』(33節b)と同じ出来事を見て、イエスを知り、イエスについて証しをした(29~34節)。
[第二]「イエスの洗礼」とは十字架の苦難(ルカ12:50)である。ヨハネはイエスを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(29節b)と宣言した。小羊とは贖罪の献げ物、過越の小羊、苦難のしもべ(イザヤ53章)であり、神の小羊とは神が備える犠牲の羊(創22:13)である。主に感謝。
[第三]「イエスの洗礼」とは油注がれたお方なる主イエス・キリストが私たち全員に分与して下さる聖霊による洗礼(33節b)、全身が聖霊漬けにされて人の内側から全く清くされる聖霊の満たし、聖潔、聖化、聖霊降臨の恵みである。
●主イエスの命令は「聖霊を受けなさい。」ヨハネ20:19-23
 復活の主イエスは弟子たちに「聖霊を下さるように祈りなさい」とは言われず、「聖霊を受けなさい」と言われた。受ける(ラムバノー)とは「受け取る、もぎ取る、受け入れる、経験する」という積極的・能動的な動作である。使徒2:38、8:15、8:17、10:47、19:2には「聖霊を受ける」ことの大切さが記されている。
●イエスの聖霊による洗礼を妨げる「汚れた自我」 イザヤ書6:1-8
 私たちが聖霊のバプテスマを未だ受けていないとすれば、聖霊を受け取る側の問題である。聖霊の受け取りを拒む自我が死んでいないのである。イザヤは絶対的に聖なる神を見て、死を直感した。「災いだ。わたしは滅ぼされる。」ところがセラフィムが祭壇の炭火にイザヤの口を触れさせると、イザヤの咎は取り去られ!罪は赦された!まさに神の愛の炎、聖霊の炎のバプテスマ、ペンテコステのバプテスマである。そして今も、主はこの御堂におられ、私たちに聖霊を注ごうとしておられる。今朝こそ私たちは聖なる神に不相応な汚れた自分を見出して死を直感し、「災いだ。わたしは滅ぼされる。」と神に嘆こう!主から愛の炎、聖霊のバプテスマを受け取ろう!主イエスは今すぐにでも私たちを聖霊漬けにして下さるのだから。主イエスは言われる「聖霊を受けなさい。」

新しくされて

詩編96編1~13節

  「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え」(1節)
今年の教会標語です。2012年、日々新たな思いで主に向き合い賛美する教会でありたいと願っています。「諸国の民よ、こぞって主に帰せよ・・聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ・・」(7~9節)と、礼拝をお献げする事によって、人は新しくされ賛美する者と変えて頂き神より限りない祝福を頂きます。
 「・・自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です・・・心を新たにして自分を変えていただき・・・」(ロマ12:1~2)礼拝は修養の為や、ご利益を受け自分の幸福を願うのではなく、唯一の神の御名が崇められるためです。神が全世界の王として統べ治めておられる方ですから(7~9節)私の全生活、全存在を神の御前に神の為に差し出す事、献身が真の礼拝です。
 献身とは伝道者のみならず、全ての人に求められている事です。神によって造られた私達は自分の事の為に生きるのをやめて、神に対して全てに服従する、献身する事が人間の本来の姿です。日々自分に死に続け、キリストに生かされ続けるために礼拝をお献げするのが神に喜ばれる真の礼拝です。そうして人は神の命を頂いて新しくされて成長させて頂けます。このように自分が置かれている現実に目を向けているだけでは人は本当の意味で新しくされない事が分かります。人は様々な過去を抱えながら引きずられて日々送っています。しかし、過去を消し去ろうと精神修養する必要もなく、過去の罪や失敗、思い出す事も辛い事、過去によって傷つきながら生きなくても良いのです。過去を打ち破り全く新たにされるのが礼拝の場です。
 真実な礼拝をお献する事によって後ろのものを忘れ、神に向かって、新しい時に生かされる祝福を頂きます。「後ろのものを忘れる」とは、思い出さない事ではなく、聖書においては「もはや影響されない、動揺されない」事を意味し、自分を献げる事によって神に心を新たにして頂く事で将来に向かって前進させて頂く事をさします。イエス・キリストは人間の罪の為に十字架にお架かりになりその身を差し出してくださったのですから、今度は私達が自分の身体を神にお献げするのが、主イエスの愛にお応えする事です。「この身を神にお献げします。」と主の日の礼拝毎に決意をもって礼拝をお献げする1年でありたいです。

限りない祝福

歴代誌上4章10節
マタイによる福音書21章22節

 新しい年の初め、神から限りない祝福を頂きたいと願うものです。ヤベツという人物から学ばせて頂きますが、彼は聖書においてこの箇所にしか登場しない人物です。彼の誕生は母親のひどい難産の為に、身体的にハンディを持って生まれてきたと言われ「悲しみ」「苦しみ」という意味を持つ「ヤベツ」という名前を付けられました。しかし、そのような生い立ちの辛さに対して彼は神を恨む所か、神に依り頼み、その禍を逆転しようと積極的発想を持ち、大いなる祝福を頂きました。そのような彼の信仰の姿勢が今に至っても私達に希望と励ましを与えています。
 「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください。と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。」領土を広げる、という事は当時のイスラエルにおいては考えられないような事でした。土地は神から家族ごとに与えられたものとされ「領土を広げてはならない」という戒めが聖書に記されています(申命記19:14,27:17等)。そのようにヤベツの祈りは常識・不可能への挑戦でしたが、神はこの祈りに見事に応えてくださいました。
 「・・この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込めと』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる」(マタイ21:22)山が海に飛び込む事は不可能ですが、これは人間の常識です。私達は常識・能力・経験等色々な壁に囲まれて、自分で限界を決めつけてしまっています。全知全能、栄光の神を自分サイズの小さなちっぽけな神にしてはいないでしょうか。私達が待ち望む神は、力と愛に満ちておられる偉大なお方で、祝福しようと願ってやれないお方です。自分の考えに固執するのではなく期待すべき方は神ご自身です。真の信仰とは既に受けたように神の御業を信じるきる事です。
 神の御言葉を聞く事は誰にでもできますが、聞いて信じる人は少人数です。神の約束のお言葉を通して、私達の心と考えを信仰で満たす事が祝福の基です。
 今年も様々な壁に突き当たっていくと思います。そのような時にこそ自分の限界を打ち破って領土を広げて頂くように大胆に祈り、神にあって祝福の内に成長させて頂き、感謝して参りましょう。今年、どのように神は私達の領土を広げてくださるか楽しみです。