聖く化ける

使徒言行録15章7~11節,ペトロの手紙一1章13~19節

 主イエスの十字架によって罪から救われ、神の子として新しく生まれた人をキリスト者と呼び、キリスト者となった瞬間から罪から清められた者とさせて頂けます。「きよめ」とは、汚れを除く、という意味で、人の中にある罪の習慣、性質、思い、癖等を焼き尽くす神の行為です。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである。」(Ⅰペテロ1:16)と、神は聖なるお方ですので、私達にも聖なる者となるように求めておられますが、直訳すると「わたしは清い、だからあなたが方は清くなるのは当然である。」と、なります。神は不可能な事は要求されません。神が清いから神の子となった私達もきよくなれるという事で、これは希望のお言葉です。
 キリスト者となって既にきよめられた、といえども罪を全く犯さなくなったのではなく、未だ罪の根は残っています。神に従うか否か、正しいと分かっている事を行うか、悪いと分かっている事をおこなって罪に屈するか・・・いつも試験をされているような危うい部分を持っていますから、常にきよめられないとなりません。
 自分の中にある罪を自分で清くする事はできませんが、神が為してくださいます。「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れたことを証明なさったのです。また、かれらの心を信仰によって清め・・・」(使徒15:8)聖霊は特別な人にではなく、全ての人々に与えられて救われ、更に信仰によって清めて頂けます。「・・御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハネ1:7)「きよめます」とは現在進行形で、主イエスの血によって、きよめ続けられる私達です。その為に人間側に必要な事は、神に自分を完全に明け渡す事です。キリストがこのような罪深い私の身代わりとなられ、十字架にお架かになってくださった為に罪の性質から清め続けてくださいます。自分が頼りにして握りしめているものを離して「きよめてください」と心から求め続けるだけで良いのです。「わたしに向かって『主よ、主よ』という者が皆、天の国に入るわけでない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」(マタイ7:21~23)神の御心は清めを求め、清められる事です。

新しく生まれる

ヨハネによる福音書3章1~15節

 「もし生まれ変わる事ができたら、人生もっと良いものになっていた」と、思った事があると思います。しかし、例え生まれながらの肉体をもって生まれ変わったとしても同じような罪を犯し、同じような悩みに遭遇しながら最終的には誰でも死を迎えます。残念ながらこれは肉の体を持った人間としての定めです。キリスト教はこの「死」からの救いの宗教です。キリスト教が目指すものは、信仰によって新しく生まれ変わって、永遠の命を得る事です。キリスト者は神の恵みと支配の中に入れられて、死で終わりではない希望の中にある2度目の新しい人生を生き始めます。
 本日の箇所には地位・名誉・富・知識に恵まれたニコデモというイスラエルの教師が主イエスの名声を聞き、より良い人生を歩もうと期待してやってきました。しかし唐突にも主イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)と仰せられました。「新たに」とは、「上より」という意味で神の御霊から生まれる事を指します。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3節)。水とは洗礼に象徴される罪からの赦しと清めであり、霊とは赦された魂に聖霊によって与えられ新しい性質の事をさします。
今の自分の土台に主イエスの教えを重ねても救われません。この命に「神の命」が宿り、神のご性質を頂いて、今迄とは全く違った自分に変えられた時、大いなる祝福を頂けます。そうして以前とは全く違った人生を歩み始めます。これが救いです。それは人間側の努力や修行ではなく「神は豊かな憐れみにより・・・新たに生まれさせ」(Ⅰペテロ1:3~4)とありますように、全ての人を滅びの人生から救いたいと願っておられますから、神の愛によって新しく生まれ変わらせて頂けるのです。
神のお働きが記されています(8節)。風のように形は見えませんし、思いのままに働かれますが、結果は見る事ができます。クリスチャンが生まれ、教会が誕生しました。神様を知らない方も「神様、助けてください」と、叫びますが、既に聖霊なる神が心の中に働いておられるという事です。神の憐れみにすがっていけば必ず神は2度目の人生を与えてくださいます。

聖霊の賜物

使徒言行録2章1~11節

 主イエスは弟子たちに、エルサレムを離れず、父の約束されたもの、聖霊による洗礼を待つように命じ (使1:3-5)、弟子たち一同が一つになって集まっていると、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ(使徒2:3b-4a)」、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。ペンテコステの「聖霊降臨」の出来事である。これを原始教会のスタート、世界宣教の始まり、世界中の人々が母国語で福音を聞き語るようになった記念日と捉えることは正しい。
●「聖霊の賜物はすべての人に与えられる確かな約束の恵み」
 しかし今朝、私たちは、聖霊の賜物はすべての人に与えられる確かな約束の恵みであることを心に留めよう。聖霊降臨は弟子たちだけに与えられた恵みではない。主なる神は「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と言われた(ヨエ3:1-5)。「すべての人」である。ペトロは説教の冒頭(使2:14-21)にヨエル書を引用し、ペンテコステの出来事は預言の成就です!と人々に力強く告げ知らせた。まさに聖霊を注がれた者の説教である。主イエスが約束された聖霊は、永遠に私たちと一緒にいて下さる別の弁護者、全てを教え、主イエスの言葉を尽く思い起こさせる真理の霊(ヨハ14:15-17,26)である。この聖霊が私たちの上に降るならば、私たちは力を受け、地の果てに至るまで、主イエスの証人となる(使1:8)。真理の霊が私たちに父なる神の御心を悟らせ母国語で福音を語らせる。真理の霊は、私たちの心の奥底に潜む罪を示して悔い改めに導き、圧倒的な聖き力によって私たちを聖潔(きよめ)て、福音を語るに相応しい者、神の御心に適う者へと変えて下さるのである。
 聖霊は今も生きておられ、思いのままに(ヨハ3:8) 働かれ、私たちに降り、上にとどまり、満たしたいと願っておられる。父なる神がすべての人々に聖霊の賜物を与えると約束され、主イエスは「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。(ヨハ14:14-15)」言われた(15:7も同様)のだから、御言葉を信じ、感謝し、切に祈り、願い求めよう。『ペンテコステの時に弟子たちに降り注いだ真理の霊を、父なる神よ!今、私たちにお与え下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン』

天に昇られたイエス・キリスト

ルカによる福音書24章41~53節

 ルカによる福音書の最後の場面に登場する人々は常に喜び、神を礼拝し褒め称える弟子達の姿です(50~53節)。その直前の様子は、主イエスが十字架に架けられ後、復活された事実を信じる事ができずに、失意と絶望の中に居ました。そのような悲しみに打ちひしがれる者から、神を喜び礼拝する者へと変えさせて頂いたのは、聖書で語られている神の御言葉・福音を悟り、聖餐式によって復活の主イエスご自身と出会った事でした(24:26~35)。キリストの福音は執着していた自分の考えと、この世の常識を捨て喜ぶ者へと変えて頂く力があります。クリスマスに告げられた大いなる喜びは「救い主」のご誕生でした。この喜びをやっとこの時自分のものとしたのです。
 「イエスは、そこから彼らをベタニアのあたりまで連れて行き手をあげて祝福された。」(50~51節)と記されていますが、祝福とは信頼・尊敬・感謝・安心・喜び等を現し、主イエスは昇天した後も地上に残る弟子達に対して祝福し続けるという思いが込められています。この祝福は私達にも向けられており、今もなお続いています。
 主イエスは天の父の元に昇って行かれ、決定的な別れの時となりますが(51節)、罪の贖いと復活の命の約束が自分達の為だったという事を確信し、死が終わりではない、という希望と喜びの内にありましたから十字架に架けられた後のような悲しみはもうありません。それ所か「あなたがたにまで伝えられたこの福音は・・・あなたがたの所でも神の恵みを聞いて真に悟った日から実を結んで成長しています。」(コロサイ1:6)の如く、神の恵みを悟った弟子達は「罪の赦しを得させる悔い改め」を宣べ伝える特別の使命が与えられ、主イエスに代わる聖霊なる神の力を与える約束をされました。「父が、約束されたものをあなたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」((48~49節)留まる事は楽な事ではありませんが、神の力を待ち望まないで始められた人間の働きは長続きしません。事を成すのは人間の思いではなく神の力です。キリストの昇天後、弟子達は聖霊なる神の力によってキリストの福音を宣べ伝え、時を経て私達の元にも届けられました。主イエスの昇天後、決定的な新しい時代に入ったのです。

恵みが待ち構えている

使徒言行録2章36~42節

 主イエスが天に帰られ、その代わりに聖霊なる神様が私達の元に送られました。その事によって弟子達のあやふやであった信仰が確立され、ペトロは「邪悪なこの時代から救われなさい」(40節)と勧め、人々はこの言葉を受け入れ洗礼を受け、3000人もの人々が救われた事が記されています。
 救われるには「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦して頂きなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(38節)と、悔い改めが必要です。悔い改めとは人生の方向転換をいいます。神を神と思わず神に背を向けて、自分中心とした生き方から180度方向転換して、神の恵みの支配の中に生き始めることを意味します。旧約聖書に登場する栄華を極めたソロモン王の「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と嘆きの姿が記されています(コヘレト1:2)。財産や名誉を積み、自力で幸せを作っていても心の中はいつも空虚でした。神の憐れみと恵みの中で生かされない限り、人は本物の感謝と喜びを見出す事はできないものです。
 方向転換するにはイエス・キリストの十字架を仰ぐことです。「・・・あなたがたが十宇架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36節)「イスラエルの人々は大いに心を打たれ」(37節)とありますが、心打たれるとは、「自分の心臓を槍で刺し貫かれる」という言葉で十字架の意味を知り、衝撃的な心の痛みを覚えて悔い改めました。キリストの御前に出た時に知らされるのは自分の罪です。悔い改める時、十字架上でイエス・キリストの裂かれた肉と流された血潮によって、神は無条件で全ての人の罪を赦してくださいます。その結果、聖霊なる神様が私達の心の中に宿ってくださいますが、聖霊は「その中にご自身を注ぎたいと思う容器を求めて探しておられる」といいます。容器とは人間の事です。心に自分の思いが詰まっていたら聖霊は入る事はできません。その為には「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(42節)と、常に福音の真理を聖書から教えて頂き、愛の交わりと聖餐の恵みに与る姿が記されています。私達の目の前にも聖霊なる神様の恵みが待ち構えています。