「悪を善に変える神」 創世記50章1~26節
「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神がそれを善に変え、多くの民の命を救うために、こんにちのようにしてくださったのです。」(20節)ヨセフの人生は兄達の企みから始まりましたが、悪をも善に変えてくださる神と共に歩んだ結果、罪から追いかけられ復讐を恐れた兄達に対して「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」と、怯える兄達に涙する人間として成長させて頂きました(17~21節)。神ではないからヨセフは裁かない、いや裁けないのです。復讐は神がなさる事で(申命記32:35)、裁きは神にお任せし、目の前の自分の為すべき事を成し続け、人を養う者となった、信仰者の歩みを示しています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ12:21)と、善を持って悪に立ち向かうのが神のやり方で、そうして相手を変え、自分をも変わる事を神は望まれています。
恨み辛身で相手に決着をつけようとして、悪に対して悪に返すならば、結局は自らの人生を壊してしまいます。しかし善を為す事は、なかなか相手に届かず中途で挫折してしまいがちで、闘いです。故に「忍耐強く善を行い・・・」「たゆまず善を行い・・・」(ロマ2:7、ガラテヤ6:9)と、パウロは語っています。善を為す事は決して楽な事ではなく、苦しみ痛みを覚えますが、相手がどうであれ忍耐をもって、たゆまず善を行い続けるなら必ず実を結ぶと神は約束しておられます。主イエスは私達に裏切られ背かれても、省みを求めず善を成し続け、十字架に架かってくださいました。故に救われた私達も目には目を、という決着をつける生き方ではなく、自ら痛みを持ちながら、相手からの省みを期待せずに課せられた十字架を背負ってたゆまず善を行い続け、他者を生かしながら自分も成長させて頂きましょう。「・・善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私達はその善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)善い業ができるように造られている私達です。
月: 2010年8月
8月15日礼拝説教概要
「神の道が見えた」 創世記45章1~15節
ヨセフ物語のクライマックスです。ヨセフの兄達はかつてのように自己本位ではなく、弟を助ける人間に成長しているのを目の当たりにしてヨセフは心を動かされ、自分の身を明かしました(1節)。
ヨセフは兄達を初め、人々に裏切られ、陥れられ、信じられない人間の現実の中に生きてきましたが、復讐する事を人生の目的とするのではなく、自分を迫害した兄達を助け、養うという神の約束(37章)を信じて、実現させる為に歩んだ人生です。ヨセフは自分の力で頑張ってきたのではなく、共にいてくださり、限りなく支え導いて下さった神がヨセフを力強く生かしてくださいました。
「神がわたしをあなたより先にお遣わしになったのです。」「わたしをここ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(7・8節)ヨセフは事実、エジプトを支配する者となりましたが、彼は兄達に支配されたのではなく、又、運命に支配されたのでもありません。勿論ヨセフの知恵や計画がエジプトの人々を支配するものでもなく、人間を支配されるのはあくまでも神御自身です。その事をヨセフの人生を通して神が示してくださいました。
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19~20)神を信じるヨセフの中に神が宿っていました。ヨセフが生きたのではなく、神がヨセフを力強く生かし神の栄光を現しました。人を裏切り、神を裏切り、又、神に背いて生きているような、何者でもない私達です。しかし、私達の只中に十字架に架かられた主イエスがいらしてくださり、その恵みに見出され、既に神の御業にこの身をもって参与できるようにさせて頂いています。このつたない命が少しでも用いられる事は大きな喜びであり感謝な事です。
8月8日礼拝説教概要
「銀の杯」 創世記44章22~34節
主イエスは、引き渡される夜、ゲツセマネで祈られた(マルコ14:36)。私たちが飲むべき「罪の報い」という杯を身代わりとなって飲んで下さった。主は想像を絶する苦い杯を従順に飲み干され、栄光に輝き、今や神の玉座の右に座しておられる(ヘブル12:2)。
主は私たちに最も相応しい「飲むべき杯」をお与え下さる。患難だが最善であり、私たちに真の喜びを与え、主の栄光へと導く杯である。だから私たちは讃美歌285番3節で「主よ飲むべき我が杯、選び取りて授け賜え。喜びをも悲しみをも、満たし賜うままにぞ受けん」と主を賛美する。
創世記44章には「銀の杯」が登場する。エジプトに7年間の大豊作と7年間の大飢饉が訪れ、エジプトの司政者ヨセフはカナンから食料調達に来た10人の男たちをスパイ容疑で投獄した。ヨセフの兄たちである。ヨセフは他人を装い、兄たちを厳しく試す(創世記42:14-20)と兄たちは苦難を知り、ヨセフに対する罪を悔いた。更にヨセフはシメオンを人質とし他の兄たちを試す。兄たちの運んだ食糧が底を尽くと父ヤコブはベニヤミンのエジプト行きを渋々認め、兄たちが末弟を連れてエジプトへ行くと、容疑は晴れシメオンも解放された。ヨセフ宅で宴会が始まり彼らは大いに飲み食いし、翌朝、彼らは食糧の詰まった袋をロバに積み、意気揚々と出発したが窃盗容疑で呼び止められる。ベニヤミンの袋からヨセフの「銀の杯」が発見されベニヤミンが捕まり、兄たちは彼を見捨てず一緒に引き返したが弁明できず、「神が僕どもの罪を暴かれたのです」と兄弟全員が奴隷になると申し出た(44:16)。ヨセフが彼らの申し出を断ると、ユダがベニヤミンの身代わりを申し出た(44:33)。年老いた父とベニヤミンのことだけをありのままに語り、自分のことを一切述べないユダの執り成しは本物で、ベニヤミンへの愛、父への愛、自己犠牲の愛が溢れ出た。神の与え給うた「銀の杯」は不当な理由で奴隷となる苦難の杯、かつてヨセフが味わった杯だが、ヤコブの息子たちを愛に満ちた清い者たちに変えさせた最善であり、真の喜びを与え、主の栄光へと導く杯であった。ユダの身代わりの申し出は主イエスの十字架を想起させ、真にこのユダの家系から主イエス・キリストは誕生するのである。ヤコブが味わった最愛の息子を失う「悲しみの杯」は、父なる神が独り子を失った時の悲しみを想起させ、私たち人間に神の痛みを僅かながら知らせてくれる。
主がお与え下さる杯は私たちに最も相応しい「飲むべき杯」だが、ある方はそれを既に味わい、またある方は手に取ることさえ躊躇しておられる。しかし主イエスの極めて苦い杯を思えば私たちの杯はいかに甘露な杯であろうか。主は私たちを益々愛して、更に大いなる使命と喜びを与えんがために「子よ、おまえは私の与える杯を飲んでくれるか。」と問うておられる。主を信じ、主の下さる杯を喜んで頂戴する者へと変えていただこう。
8月1日礼拝説教概要
「キリストこそ、私達の平和」 エフェソ信徒への手紙2章11~22節
イスラエルの人々は神を知らない異邦人に対して軽蔑・差別等という壁を造っていましたが(11~12節)、「キリストの血」によって敵意という壁を取り除かれました(13節)。平和を生み出すものは条件でも討論でもなく、イエス・キリストによってのみ存在し得る事を示しています。
私達も敵意を抱き壁を築く時があります。敵意とは罪から生まれるもので例え自分が正しいとしても、その事が敵意となって現れる時に罪に陥る事になります。罪にまみれ平和のない私達の元に主イエスはおいでになりました。そして御自身の血の代価によって「二つのものを一つに」してくださり、十字架の死において敵意を滅ぼされました(14~16節)。その結果、神と人との和解・人と人との和解を成し遂げられ、平和の内に生きる新しい命に生きる者とさせてくださいました。教会はこの恵みと憐れみ深い神の招きに応じる者の集いです(18~22節)。
このように私達は神から招かれて「かなめ石であるキリストの御身体」(20節)なる教会に加えられており、後から教会にお邪魔させて頂いている存在ですから教会を貫いているのは私達の個性でも相性でもなく神の御心です。違う者同志が一つになる事が可能なのは神の御心に目を向け、キリストの平和の原点に立ち返る時です。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。」(コロサイ3:15)主イエスが十字架の死に至る迄、御自身の権利を主張せず身を低くされて平和を造られました。キリストの平和なしに組織としての教会を維持する事は教会としての命を失ってしまいます。教会にお邪魔させて頂いている私達はキリストの真の平和を造り出していく使命が託されています。弱い私達ですが聖霊の助けによって権利を主張せず自我が十字架に呑み込まれて使命を全うさせて頂きましょう。