8月22日礼拝説教概要

「悪を善に変える神」 創世記50章1~26節
 「あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神がそれを善に変え、多くの民の命を救うために、こんにちのようにしてくださったのです。」(20節)ヨセフの人生は兄達の企みから始まりましたが、悪をも善に変えてくださる神と共に歩んだ結果、罪から追いかけられ復讐を恐れた兄達に対して「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。」と、怯える兄達に涙する人間として成長させて頂きました(17~21節)。神ではないからヨセフは裁かない、いや裁けないのです。復讐は神がなさる事で(申命記32:35)、裁きは神にお任せし、目の前の自分の為すべき事を成し続け、人を養う者となった、信仰者の歩みを示しています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ロマ12:21)と、善を持って悪に立ち向かうのが神のやり方で、そうして相手を変え、自分をも変わる事を神は望まれています。
 恨み辛身で相手に決着をつけようとして、悪に対して悪に返すならば、結局は自らの人生を壊してしまいます。しかし善を為す事は、なかなか相手に届かず中途で挫折してしまいがちで、闘いです。故に「忍耐強く善を行い・・・」「たゆまず善を行い・・・」(ロマ2:7、ガラテヤ6:9)と、パウロは語っています。善を為す事は決して楽な事ではなく、苦しみ痛みを覚えますが、相手がどうであれ忍耐をもって、たゆまず善を行い続けるなら必ず実を結ぶと神は約束しておられます。主イエスは私達に裏切られ背かれても、省みを求めず善を成し続け、十字架に架かってくださいました。故に救われた私達も目には目を、という決着をつける生き方ではなく、自ら痛みを持ちながら、相手からの省みを期待せずに課せられた十字架を背負ってたゆまず善を行い続け、他者を生かしながら自分も成長させて頂きましょう。「・・善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私達はその善い業を行って歩むのです。」(エフェソ2:10)善い業ができるように造られている私達です。