「保留するものなし」 創世記22章1~19節
イスラエル人の信仰の父祖となったアブラハムは、主なる神より「わたしが示す地に行きなさい。」(12:1)とのみ声に行く先の知らずに従っていきました。神はアブラハムに約束の通り大いなる祝福を与え、一層豊かな者となりました。諸国の人々も神の祝福を得ている者と認めているほどでした。妻サラによって大いなる約束の実現の息子イサクが誕生(21:1~2)するには、アブラハムが100歳となるまで実現されませんでした。息子イサクを与えられ、神様の約束の全てをいただいたアブラハムであります。どんなに大きな喜びであり、大きな期待をもって歩みはじめた事でしょう。主なる神の約束によって満たされている中に、神はアブラハムを試された(22:1)のです。神のアブラハムへの命令は、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを…焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」(22:2) イサクはアブラハムの未来を象徴するものでした。アブラハムはこれまでも神の約束の光の中を生きてきました。ところが今、神は彼の生涯をかけた約束さえもささげるようにと求められます。アブラハムは、手中に握っている最も貴重な二つを主に喜んで明け渡しました。息子と未来です。最も重要なものを明け渡す心の姿勢に立つまでは、真に御霊に満たされることはありません。心の中で無条件にキリストが第一となるまでは、御霊の満たしは実現しません。私たちが求めるべきことは、主イエス・キリストと共に歩むゆえに与えられる本当の自由・御霊の満たしです。私たちの信仰の歩みに支障を来す要素があるならば、神に与えられた祝福さえも神に差し出す決意が必要です。神が喜ばれるのは、すべてのもの、すなわち職業、財産、地位、そして家族などを自分で握りしめることなく、開いた手のひらに乗せ、神に差し出し続ける人です。心にしっかりと握り続けるべき唯一のものは、ただ神ご自身のみです。主は与え、主は取られることを、私たちが心から納得することを、神は願っておられます。キリストのみが私たちの保証です。
月: 2010年3月
3月14日 礼拝説教概要
「わたしは主を愛する」 詩編116編1~19節
⑴ 詩編116はユダヤの伝統においては過ぎ越しの祭の際に、必ず食卓で歌われるものです。それ故にこの御言は彼らの信仰告白であると共に私達の信仰告白でもあります。イスラエルにとって重要な言葉は「シェマ」、「聞け」という言葉です。ローマ10:17に、「実に、信仰とは聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」とありますが、信仰はただ聞くだけではありません。語りかけてくださる主は、応答を求めて語りかけてくださるお方です。「シェマ」、「聞け」と語りかける主に対して詩人は、「わたしは主を愛する」(1)と応答しました。どうしてそう応えることができたかというと、「主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。」(1~2)お方であるからに他なりません。
⑵ 死線をさまようような状況の中、詩人は主に対する信仰の確信を告白します。死の綱がからみつき、陰府の脅威にさらされているどうしようもない危機的体験を彼はしたようです。そのような中、人が成しえることは唯一つ、「主の御名を呼ぶ」(4)ことです。彼は「わたしは信じる」(10)と宣言します。彼の立たされている状況は、主の存在をも疑いたくなるような危機的状況です。にも拘らず彼は、「わたしは信じる」と告白するのです。ある伝道者は、「信仰に生きるということは、信仰をもって不信仰を踏みつけることである。」と語りました。詩編の作者のように、「激しい苦しみに襲われている」、「不安がつのり、人は必ず欺く」(11)と思うときは正に不信仰が芽生えやすい状況です。しかしそのような状況であればこそ、「わたしは主を信じる」と宣言するべきです。信仰に生きるということは旗幟鮮明な生き様のことを言います。「わたしは出席者を愛する」、「わたしは主を信じる」という告白をもって自らの生き様を主と人の前に明らかにしましょう。そのようなはっきりとした信仰者として「主の御前を歩み続ける」(9)人を主は祝福してくださいます。
3月7日 礼拝説教概要
「最後の晩餐」 ルカによる福音書22章14~23節
最後の晩餐は3つの要素が含まれています。
1、弟子達が最後の晩餐を主イエスと共にする事(14~18)。
2、間近な主イエスの死を示しそれを象徴するパン(主の御身体)と葡萄酒(主の血)を主イエスが弟子達に授ける事(19.20節)。
旧約時代、罪の赦しの印として動物の血が流されましたが、新しい契約は神の子イエス・キリストが十字架の上で御自身の肉が裂かれ血を流されました(エレミヤ31:31~34)。それは全人類が罪から解放されて、神の真の約束である、神の国=天国に導かれるという、死の滅びから救いの新たな命に通じる道への招きです。
3、主イエスが弟子のユダの裏切り行為について語る事。
いよいよ十字架に架かられる時、その愛は頂点に達しましたが弟子のユダは不信と裏切りに到達しました(21~22節)。「ユダの心にサタンが入った」(22:3)と、彼は最後までサタン=神に敵対する悪に捕えられて生涯を終えました。自分の考えに固執し誤解と不満を持ち主イエスの心を学ぼうとしない時に、サタンに支配され罪を犯します。主イエスは全てをご存知でこの晩餐の時にユダに最後の機会を与え、信仰に立ち帰る事によってサタンに打ち勝つ可能性のある事を教えたかったのです。
主イエスを裏切る(21,22節)は渡すと同じ語源で、「使徒たちに与えて言われた『取って食べなさい。これは私の体です』」(19節)の与えてと同じ語源です。主イエスは御自身の体を物のように裂いてお与えになりました。全ての罪人が救われる為に最後まで私達を愛し抜かれて、御自身の尊い御身体を血を流して切り刻んで、キリストの命を惜しむ事なく与えてくださいました。その事により私達の不真実を主イエスの真実が覆い尽くされて救われている私達です。その尊い犠牲に対してどれ程の感謝をお献げしているでしょうか。救われた初めの愛に立ち帰り、頂いた命を喜びと感謝をもって毎回の聖餐式に臨みたいものです。
2月28日 礼拝説教概要
「あなたは礎の尊い石」 Ⅰペトロの手紙2章1~10節
イエス・キリストは私達が罪から救われて新しく生きる為に人々に軽蔑されても見捨てられても自ら十字架に架かってくださり「人に捨てられた石・隅のかしら石」(4節)となって教会の礎となってくださいました。信仰者は一人でキリストを求めて歩むものではなく、キリストの体なる教会に結びつく事によって、キリストの命に生かされてそれぞれが組み合わされて成長させて頂きながら歩むものです。
「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。」(5節)と記されている通り、主イエスは罪深い人間という岩から私達を切り出して、神の民としてくださり、神がお住まいになる教会の中に既に備えられている場所に私達をぴったりとはめる為に組み合わせてくだささいます。その為に牧師も信徒も自分の中の尖っている削るべき所は神が削ってくださり整えられていきます。削られる痛みを伴いますが、神の目的の為に光輝く価値ある道具とさせて頂く為であり、神がお住まいになる神の宮としての教会が建て上げられていきます。ダイヤモンドの原石は一見ゴツゴツした価値のないような石ですが削り磨かれて光り輝く価値ある美しい石へと造り変えられます。同じように人はひたすらキリストの体に結びつく事によって尊い生ける価値ある輝く石に変えられて行きます。その過程を愛する兄弟姉妹の姿を通して見せて頂く事は私達の大いなる喜びです。
永遠の神を信じ救われた私達は祭司役つまり、自分自身を神にお捧げして神に仕える為に神の民とさせて頂きました(9~10節)。旧約時代、祭司は耳・手・足に血を塗る事によって清められてその任に当たりましたが、今、私達は金や銀よりも尊いキリストの十字架の血潮によって私達を清めて神の為に仕える者としてくださいました。本来私達が神に捨てられる石ですが、救い出され神の働きの為に用いられています。今日も神は一つも欠けてはならない尊い石として、私達を求めております。