死は勝利にのみ込まれた

コリントの信徒への手紙一15章50~58節

 15章ではイエス・キリストを信じる信仰者たちが、この世の終りの日・主イエスの再臨の時に復活して、新しい体・霊の体を与えられるという、信仰における究極的な希望が記されています。希望の根拠・保証はイエス・キリストのご復活です。主イエスは死ぬべき罪びとである私達の罪を背負って、十字架に架かって死んでくださいましたが復活され、私達の終わりの日に、神が私たちにも新しい復活の命と体を与えてくださる、という約束のしるしです。
 「死のとげは罪であり・・・わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」(56~57節)キリストの勝利は、私達の為の復活です。故に私達もこの肉体の死を越えて神の恵みによって生かされる新しい体・命を与えられるという希望に生きる事ができるようになりました。
 新しい体については「わたしはあなたがたに神秘を告げる」(51節)とあります。神秘とは、人間の知恵・普通の認識や理論を越えたという意味で、復活について理解できるのは信仰によってのみです。復活についての理解は困難を覚え、コリントの教会の中にも死者の復活はない、と主張する人々がいましたが「復活を信じないなら信仰は無駄である。」(15:2~)と、言い切っています。
 信仰の世界は理解できて信じるものではなく、信じる事によって理解していくものです。そうして信じていくうちに徐々に目が開かれて分かっていくのです。信仰とは自分自身の生き方の転換でもあり、決断でもあります。
 さて、全ての人は死を迎えますが、キリスト者は復活されたキリストの御体・霊の体が与えられるという約束です。それは今の体が再び息を吹き返す事ではなく(5:14)、「死んでも生きる命、永遠の命」です。言い換えるならば復活の命は、私達がこの世の命を終えて、死ななくては頂く事ができません。「死」は決して恐ろしい事ではなく、むしろ希望であって、永遠の希望の通過点です。ですから「死んだら生きる」と、死に対して大胆に積極的に向き合う歩みが信仰者の本来の歩みではないでしょうか。神の憐れみによって、肉体の死を越えた所の新しい永遠の希望に向かって歩む事が許されている私達です。
 「動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの労苦が決して無駄にならない…」(58節)この世での苦難は永遠の命へと繋がり、涙を流した分だけ報われて天国に繋がる恵みです。ですから、この命が朽ちて死を迎えるまで喜んで主の業に励んでいけるのです。

キリストの十字架への道

マルコによる福音書15章33~40節

 「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(34節)神に見捨てられる筈のない神の御子イエスが、見捨てられる直前の絶望と苦しみの叫びです。神というお方について私達が知る事ができるのは、壮絶なキリストの十字架を通してしかありませんでした。
 神だから余裕があって主イエスを十字架に架けられたのではなく、断腸の思いで主イエスと共に耐え難い苦しみを伴っていたのです。キリストの十字架が示すのは、罪びとを救い出したいという痛みを伴った神の愛、神の御心です。
 「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(33節)この暗闇は全人類が神に背いた罪の暗闇で、その絶望が主イエスの壮絶な叫びとなったのです。これは主イエス御自身の恐怖と、私達自身の恐怖の二つの叫びです。主イエスご自身が地獄へ落とされる事への恐怖ではなく、神から見捨てられ、神との関係が切れる事のへの恐怖です。私達が体験しなくてはならない恐怖、絶望を背負って引き受けご自分のものとして体験してくださいました。その苦しみの中で死なれたのです。その直後に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(38節)と記されています。垂れ幕とは人間の罪の為に隔てられていた壁ですが(レビ記16章)、十字架の死によって罪が赦されて、神の御前に出る事が赦され、暗闇から永遠の祝福の新しい世界に私達が招き入れられた、という歴史的な大展開が成し遂げられたのです。
 このように神の愛と神の御心と共に神のお苦しみを知っているにも拘らず、依然として様々な問題の中で襲ってくる苦しみから逃れたいと思う私達ではないでしょうか。苦しみの過程が省略されて、思い通りに幸せな人生を歩む事を最優先するような、良い結果だけを手に入れようとする世界に生きているように思えます。「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。」(フィリピ3:8)パウロという人物は主イエスを伝える為に、今迄の地位など一切を失いましたが、キリストの十字架の苦しみに与りたいとまで語っています。労苦を買って出る必要もありませんが、キリストは神の御子でありながら、私達を愛する故に、十字架の苦しみを放棄されませんでした。今、自分達に与えられた苦しみから逃げ出したり放棄しないで歩む為に、キリスト・イエスを知る事を追い求めていくことが私達に与えられています。十字架上のキリストがいつも共にいてくださいます。

萎えた手を伸ばせ

ルカによる福音書6章6~11節

【祈りと試練】 『祈りとは私たちが自分の内に鑿(のみ)を当てて、キリストの似姿を彫りつつあること』であり、『試練とはキリストの似姿・神の似像になるまで神様が私たちを削って下さること』だと言われている。ヘブル書も主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるのだから、主の鍛錬を軽んじるな、主の懲らしめに力を落とすなと記している(12:5-6)。しかし主の与え給う試練は、世界規模の天変地異や大震災から、戦争や内紛、人種差別や宗教迫害、教会の不一致や分裂、会社や学校や家庭内の不和、個人の失業・貧困・病気・怪我・失恋・別離、その他多岐に亘り、信仰の足りない私たちは、時に戸惑い、容易く落胆し、傷付き、疲れ果て、もう二度と傷付くまいと縮こまり、その手は死んだように力を失い、枯れた骨のように萎えてしまうのである。
【萎えた手】 ある安息日に会堂で礼拝する人々の中にイエス様がおられ、右手の萎えている人もいた。「萎えた手」「萎えた」は原語(ギリシャ語)で「クセーロス」といい、「乾いた」「枯れた」「硬直した」「衰弱した」「やせ衰えた」の意。七〇人訳のエゼキエル書37章「枯れた骨の谷」にも同じ単語が使われている。イエス様はその人の背後にエゼキエル書37章の「枯れた骨の谷」の光景を見ておられた。この時、「枯れた骨」は口伝律法に縛られ死人同然のイスラエルの民、そして世界中の亡び行く人々であった。イエス様は右手の萎えている人に「立って、真ん中に出なさい」と言われた(8)。真ん中に立った彼の右手を見た人々は悟った。彼は仕事を失い、今日の食事にも困っている。それでも彼は神に依り頼み、礼拝を献げているのだ。手は萎えたままだが・・・。
【あなたの萎えた右手を伸ばせ】 詩編16:8-11が示すように、右の手は「神との親しい交わり」を意味する。私たちの主なる神は、絶えず私たちの右におられ(つまり弁護して下さり)、私たちが右手を差し出すならば、主は力ある右の御手から永遠の喜びを溢れるばかりにお与え下さるのである。今朝、イエス様は「手の萎えている人」と同様に世界中の人々に、日本の教会に、小松川教会に、そして私たち一人一人に向かって、傷付くのを恐れて縮こまったあなたの右手を、あなたの萎えた右の手を伸ばしなさいと命じておられる。試練を恐れずイエス様の御言葉に信じ従おう!主は私たちの手を元どおりにして下さる!さぁ!右の御手から永遠の喜びをいただこう!ハレルヤ!
【祈祷】 「あなたの萎えた右手を伸ばせ」と命じて下さる主よ、私たちはあなたを信じます。主よ私たちは試練を恐れません。右に在す主よ、どうぞ私たちの手をどこまでも御心のままに伸ばして下さい。永遠の喜びを下さる主よ、どうぞ福音を伝える御手の指先として、私たちを用いて下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

わたしは何者だ

マルコによる福音書8章27~38節

 ペトロは主イエスに対して「あなたはメシアです。」(29節)と、完璧な信仰告白をしました。他の弟子達は、主イエスを人間レベルの英雄としか認識していませんでしたが(28節)、彼は主イエスをキリスト=救い主、生きておられる神の御子だと、心から称えたのです。しかし、その舌先渇かぬ内に、主イエスの御思いとペテロの思いは致命的にかけ離れ「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(33節)と、主イエスから驚くほどの厳しい叱責を受けたのです。
 事の始まりは、主イエスがこれからのご自身の御受難を、予告された事からでした。「…人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている…」(31節)主イエスの死と復活を耳にした途端にペトロは、神を称える心は瞬間に消え失せ、自分を守る事に走ったのです。主イエスはそこに「サタンの思い」を見てとられたのです。「サタンの思い=悪魔的な思い」とは、主イエスの十字架の御業を妨げようとする思い、自己中心的な思いです。ペトロのように神の事を思わず、人間のこと、自分の事を思っているとしたら、それはサタンの思うままに支配されていく破滅の道以外何ものでもないという事を心しなければなりません。
 そこで主イエスは「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)と仰せられました。ここで強調されていることは、「従う」こと、しかもそれは「イエスの後に従う」ことです。「サタン、引き下がれ」と言われた「引き下がる」という言葉は「後に回る」という意味です。主イエスの前にでしゃばって進むこと、それは主イエスの思いに従うのではなく、自分の思いを主イエスの前において歩むことで、これが私達人間の根源的な罪です。
 「主イエスの後に従っていく」生涯は、死で終わらない、復活に与る道です。従う道は、人を牛耳るものではなく主イエスの十字架と復活の大いなる御業のお陰で、主の後に従うすべての人に罪の赦しと死に勝利された復活の命が約束されている希望の道であり、希望の招きです。私の思いが「キリストの思い」キリストの心に与っていけるのか、それとも「人のこと」を思うか。これは、命か死か、祝福か呪いかほどの致命的な違いです。「あなたはメシアです」と告白しつつ、主イエスの後に従う者には、祝福の道が既に目の前に開けています。

何でもはっきり見えるようになった

マルコによる福音書8章22~26節

 信仰者にとっての祝福の基は、信仰の目が開かれてイエス・キリストのお姿を見ることです。「主イエスと出会った私の人生は満たされ、いつ死んでも良い。」と、賛美したシメオンという老人の事が、ルカによる福音書2:25~32に記されています。彼は救い主にお会いするまでは決して死なない、と聖霊によりお告げを受けていましたが、いよいよ実現し、救い主である幼子イエスを抱き上げ神を賛美しました。「この目であなたの救いを見た。」から長い人生は十分に満たされたので、いつ死んでも良いというのです。救いを見るとは、主イエスの十字架のお姿です。十字架によってこそ自分の罪が示され、悔い改めと同時に罪の赦しが与えられます。故に主イエスとの出会いこそが私達の人生の目標で、同時に神の深い愛と恵みを分からせて頂けるのです。
 本日の箇所は主イエスが盲人を癒やされた事が記されています。しかし、肉体的な癒しだけではなく、神の恵み、つまり神の御業が展開している有様を見ることができるように、主イエスが直に触れてくださいました。彼と同じようにかつての私達は目があっても神の恵みが見えていませんでした。生まれながらの目をいくら見開いても、目にするのは闇の深さだけです。絶望的な闇の中で新しい世界を見る事ができるようになるために、主イエスが目を開いてくださるのです。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」(24節)主イエスは群衆の中から盲人を連れ出し目に唾をつけ、両手をその上に置かれて尋ねました。しかし、まだはっきりと見る事ができなかったので、再度目に手をおかれました。「…よく見えてきていやされ、何でもはっきりと見えるようになった。」(25節)見えるまで主イエスが私達に触れてくださって、やがて信仰の目が開かれ、十字架の主イエスのお姿がはっきりと見えてきます。そうして、主イエスとの交わりが始まり、信仰の目が少しずつ開かれて信仰が成長していきます。これこそが私達の人生の目標であり、何よりもの慰めと希望です。この経験を毎週の礼拝で体験させて頂いています。
 人は神を信じようとする時、しるしを求めたがるものです(8:12)。しかし、肉眼で主イエス・キリストを見ていても神の深い真理、恵みは見ることはできません。主イエスが手を差し伸ばして触れてくださっておりますから、混沌とした世界に一筋の真実の希望の光が貫いているのが、はっきりと見えるようになったのです。「この目であなたの救いを見た」と告白できる事は感謝です。

まだ分からないのか

マルコによる福音書8章11~21節

 父なる神は独り子であるイエス・キリストをお与えになるほど、私達を愛し、永遠に慈しんでくださり、人間側が求める前から全ての必要を恵みとして与えてくださっております。私達の人生は初めから終わりまで、既に神の恵みの奇跡によって支えられております。信仰生活は神の恵みを恵みとして受け取る事、神の奇跡を信じると言う事です。
 しかし弟子達の現実はというと、奇跡の出来事を幾度も経験させて頂たにも拘らず、その恵みによって生かされていませんでした。私達も同様です。「わたしが5千人に5つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は幾つあったか・・・7つのパンを4千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、いくつあったか。・・・」(19~20節)  目の前の出来事しか見えていない弟子達に、再度、主イエスの恵みに目を向けさせようと、たたみかけて問うておられます。
    
 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい。」(15節) パン種とは聖書において「悪いもの」の代名詞として使われています。律法を守る事に必死になり、人の目を気にして人を裁くような生き方をしているファリサイ人や、権力に固執するヘロデのような、廻りの人々の信仰生活に悪影響を及ぼす人々に注意せよ、戒めておられます。どちらも自分中心、人間中心の生き方で、私達の心の内にも同じようなパン種は存在しています。主イエスの心からの願いは、私達が神の恵みを中心に据えた信仰生活を送る事です。
 イスラエルの民が砂漠で飢えに直面した時、40年間天からのマナによって養われた事が旧約の出エジプト記6章に記されています。神は天からのマナを与えられましたが、これは食糧の問題だけではありません。全てのものが神から与えられる事を教えるためです。「・・・まだ、分からないのか、悟らないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。・・・」(17節) 主イエスはこのお言葉を断腸の思いで語られたのではないでしょうか。
 クリスチャン生活とは、自分が努力する事ではなく「主の恵みによって生かされている」ことを知ることです。主イエスの元に、全ての恵みと力の源があります。神からの恵みをこの手で受け取り続ける事です。奇跡を感動し、感謝しているなら、この世の出来事に振り廻される時間はなくなるでしょう。

けがれを清める

ルカによる福音書5章12~16節

 イスラエルの人々は重い皮膚病を神の御業(出4:6-7)、神が怒りを下し(民12:9-10,王下5:27,15:5,代下26:19)、神のみが清め給う(民12:11-15,王下5:14)と考えた。人々は儀式的に身体の汚れを水で洗い清めたが、重い皮膚病だけは自力で清められなかった。この不治の病に冒された者は宿営の外に独り野宿し、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、不用意に近づく者に向かって「ターメー、ターメー(わたしは汚れた者です。汚れた者です)。」と悲痛な叫び声を上げた(レビ13:45-46)。私たちも傍目には敬虔なキリスト者、罪から遠く離れた者のようだが、心の内は罪・咎・汚れに満ちている。それは自責の念に苛まれ、無言の悲痛な叫び声を上げている私たち自身が、誰よりもよく知っている。
●「御心ならば」という信仰…ある町の外に全身重い皮膚病の人がいた。彼はこっそり町に入り、イエスを見つけ、地に額をすりつけ、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と祈り求めた(12)。彼の行為は、神以外に頭を下げず(出34:14)、神のみが重い皮膚病を清め給うというユダヤ人の常識を逸脱していたが、主イエスを神と崇め、自分の汚れを告白し、清めを求める彼の信仰を主は喜ばれた。
●「よろしい、清くなれ」…誰一人として触れようとしなかった彼に、主イエスは躊躇なく御手を延ばして触れ、「よろしい(=わたしの心だ=私は望む)、清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った(13)。イザヤ53:4aの如く、主は彼の病と汚れを担われたのである。「よろしい、清くなれ」は「よろしい、あなたの重い皮膚病も私が全て担おう。あなたは清くなれ。」との意である。
●主を信じ、清めて頂こう…私たちが外見上の「敬虔さ」や「自尊心」を脱ぎ捨てて、主に平伏し、心の内に秘めた罪・咎・汚れを赤裸々に主に告白し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と祈り求めるならば、私たちがどんなに罪・咎・汚れに満ち、誰からも見放されていようとも、主は私たちを深く憐れみ、触れて抱きしめて下さる。私たちの病を担い、汚れを引き受け、私たちの苦しみ・痛み・悩み・悲しみ・哀れを知り、涙して下さる。私たちは「よろしい、清くなれ」との御声とともに、たちまち清くされるのである。それがイエス様の御心であり、イエス様の望みである。主イエスがこの地上に来られた目的は、私たちを清めること、私たちの罪を取り除くこと、そして天の御国へ、真白く清められた私たちを神の子として天のお父様の所へ帰すことである。私たちが祈り求めるならば、主は必ず私たちを清めて下さる。主を信じ、主の十字架の贖いを感謝し、全く清めて頂こう。主の恵みを世の全ての人に宣べ伝えよう。在主

いったいどこから

マルコによる福音書8章1~37節

 4千人の人々が7つのパンとわずかな魚によって満たされたという奇跡の出来事が記されています。同じように6章30節以下においては5千人の人々が5つのパンと2匹の魚によって養われたという出来事が記されています。弟子達は神の御業を見せて頂きますが、暫くして新たな困難な場面に遭遇すると以前の恵みは忘れ、不安に陥るのです。私達も同様です。そのような者に神は何度も繰り返し教えておられます。「群衆がかわいそうだ・・・」(2節)と、ありますように、そこにあるのは唯、神の憐れみです。
 「かわいそうだ」(2節)とは、「憐れむ」という言葉です。それは単に同情するというような意味ではなく「内臓が揺り動かされる」程の痛みを伴うほど、心が痛むという強い意味です。7章34節においても「天を仰いで深く息をつき・・・」と、主イエスは苦しみを覚えている者、色々な意味で飢えている者を深く憐れんで、神の方から私達との関わりを持ってくださっております。
 これらの給食の奇跡において、自分の力でどうしようもない、という問題を前にして主イエスは自分達の手にあるものを確認させ、持っている僅かなもので満たしてくださっております。様々な事を通して「これしかない」「いったいどこから」(4節)と、嘆き不安に陥りますが、心配する必要はありません。常に主イエスは私達の困窮を憐れんでくださり、手元にある僅かなものを祝福してくださり、満ち溢れる恵みを与えてくださるお方ですから。これが私達の信仰です。
 主イエスはこれまでガリラヤ湖畔を中心に福音を宣べ伝えておられましたが、いよいよこの後、ご自身の十字架の受難の死と復活を教え始めます(8:31~)。その前に主イエスは、憐れみの主であることを示されました。裁きを行われる神が「憐れみの神」でもあることを。罪人を憐れんでくださるお方ですから、私達は救いに与っているのです。そうでなかったら滅ぼされています。
 自分の手元にある僅かなものしか見えず、そこに固執し頑固で神の憐れみが分からない鈍い私達です。しかし、その憐れみにすがって生きるように、主イエスは命を惜しまず私達に与えてくださったのが、十字架の出来事です。
 「いったいどこから」と、嘆く私達に「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから」(詩編121:2)と、神の憐れみが顔を上げさせてくださるから、私達は歩む事ができるのです。憐れみにすがる者を神は祝福してくださいます。

すべてがすばらしい

マルコによる福音書7章31~37節

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(37節)
 主イエスによる癒しの記事ですが、単なる癒しではありません。神は私達に神を見る為の目を、神の声を聞く為の耳を、神を賛美する為の口を与えてくださいました。しかし、私達はこの世の罪に埋もれて、耳は罪で塞がれて神の御言葉が聞こえず、神が喜ばれる言葉を発する事ができずに、聞かなくても良い言葉聞き、罪ある言葉を発しているような者です。「耳のある者は聞きなさい」と幾度も主イエスは仰せられます。
 そのような憐れな人間を主イエスは深い悲しみをもってご覧になり、主イエスの前に一人立たせて直に耳と舌に触れてくださり、罪で詰っているその耳を、神の言葉を聞く事ができるようにしてくださいました。「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって『エッファタ』これは『開け』という意味である。」(33~34節)宗教改革者マルティン・ルターは、主イエスの前に一人立つ所においてこそ、信仰は成立すると言っています。たとえ私達がどん底で、神の御声を聞けず、一人で喘いでいるとしても、主イエスがそこにおられ、「開け」と、声をかけてくださっております。人は神の前に立たされて「汝と我」=「神と私」の一対一の関係を持つ事によって、本当に生きる者とされます。これは私達が週毎の礼拝において経験させて頂いています。罪の束縛の中で呻き苦しんでいる私達を解かれるために「群衆の中から一人連れ出し、開け」と、神のお言葉を聞かせて頂き新しく造り変えられて又、それぞれの場へと遣わされていきます。
 人のお金をくすねて自分の懐を肥やしていた取税人のザーカイは「木から降りてきなさい・・・」(ルカ19:1~10)と、神の声をお聞きし、目からうろこのように過去の生活の非を知り、主イエスを自分の人生の主とする新たな人生を歩み始めました。神の御声をお聞きするという事は価値観が逆転するのです。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」(イザヤ35:5~6節)神の御声を聞かせて頂いた者は、何もかも素晴らしい変化が起きます。罪にまみれた私達は今や、子鹿のように山も谷も飛び越え、新しい息吹を蒔き散らす存在なっています。

それほど言うなら

マルコによる福音書7章24~30節

 神を信じるといいながら、祈りが聞かれなかったり、自分の思い通りに事が運ばないと絶望し、自分の都合で神を疑うような事をしていないでしょうか?
 「それほど言うなら、よろしい・・・」(29節)主イエスに何度も拒絶されてもひるまず、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28節)と、こぼれ落ちる僅かな残りの祝福を求め続ける母親の思いに、主イエスは心を動かされたのです。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と、ヤコブの如くに勝利を得るまで、主イエスのその足元にひれ伏し続ける真剣な信仰を神は求めておられ、又、いつも試されている私達です。
 主イエスを信じるとは、彼女のように絶望的な状況であろうとも神への信頼を貫き通し、諦めずに神の憐れみを乞い、主イエスにすがりついていく事です。この彼女の真摯な行動は信仰者の模範となって、世々語り告げられています。
 彼女は「…キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました…」(エフェソ2:12)と、あるような異邦人でした。神の御計画は、先ずイスラエルの民を悔い改めさせて救う事で、異邦人の救いは後回しでした。しかし、彼女の切なる求めによって、本来の計画がひっくり返って異邦人伝道へと展開し、キリスト教の歴史が変わったのです。
 「後のものが先になる」と、信仰の世界はどんでん返しがあります。イスラエルの民のように「先に選ばれた」と、驕り高ぶっているなら祝福から退けられ、遜ってこぼれ落ちる僅かな祝福を求め続ける者は異邦人であろうと、神は憐れんで先に救ってくださるという事が起きます。
 この聖書箇所の前後に5千人と4千人の給食の奇跡が記されています。共通する事は「僅かな小さなもの」があまりあるほどの豊かな祝福へと繋がっていく事です。本日の箇所もこぼれおちる僅かなパン屑を求めた事によって全世界へと福音が広がっていきました。からし種の小さな恵みから信仰は始まります。
 信仰とは当たり前のものを当たり前に頂くものではなく、謙遜に小さなこぼれ落ちるようなひとかけの恵みを忍耐をもって求める事です。人が救われるのは、唯一神の一方的な憐れみですから、私達はその憐れみにしがみつくよりほかないのです。神を信じる者の中には聖霊なる神が働いてくださり、「それほど言うのであれば・・・」と、私達を憐れんでくださいます。