すべてがすばらしい

マルコによる福音書7章31~37節

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」(37節)
 主イエスによる癒しの記事ですが、単なる癒しではありません。神は私達に神を見る為の目を、神の声を聞く為の耳を、神を賛美する為の口を与えてくださいました。しかし、私達はこの世の罪に埋もれて、耳は罪で塞がれて神の御言葉が聞こえず、神が喜ばれる言葉を発する事ができずに、聞かなくても良い言葉聞き、罪ある言葉を発しているような者です。「耳のある者は聞きなさい」と幾度も主イエスは仰せられます。
 そのような憐れな人間を主イエスは深い悲しみをもってご覧になり、主イエスの前に一人立たせて直に耳と舌に触れてくださり、罪で詰っているその耳を、神の言葉を聞く事ができるようにしてくださいました。「イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって『エッファタ』これは『開け』という意味である。」(33~34節)宗教改革者マルティン・ルターは、主イエスの前に一人立つ所においてこそ、信仰は成立すると言っています。たとえ私達がどん底で、神の御声を聞けず、一人で喘いでいるとしても、主イエスがそこにおられ、「開け」と、声をかけてくださっております。人は神の前に立たされて「汝と我」=「神と私」の一対一の関係を持つ事によって、本当に生きる者とされます。これは私達が週毎の礼拝において経験させて頂いています。罪の束縛の中で呻き苦しんでいる私達を解かれるために「群衆の中から一人連れ出し、開け」と、神のお言葉を聞かせて頂き新しく造り変えられて又、それぞれの場へと遣わされていきます。
 人のお金をくすねて自分の懐を肥やしていた取税人のザーカイは「木から降りてきなさい・・・」(ルカ19:1~10)と、神の声をお聞きし、目からうろこのように過去の生活の非を知り、主イエスを自分の人生の主とする新たな人生を歩み始めました。神の御声をお聞きするという事は価値観が逆転するのです。
「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。」(イザヤ35:5~6節)神の御声を聞かせて頂いた者は、何もかも素晴らしい変化が起きます。罪にまみれた私達は今や、子鹿のように山も谷も飛び越え、新しい息吹を蒔き散らす存在なっています。