「この世からあの世へ」 ルカによる福音書7:11~18
主はこの母親を見て、憐れに思い「もう泣かなくともよい」と言われた。
目の前の愛する者を失った時、絶望と喪失感に襲われ、闇の中に葬られるような思いになり、自分の人生も終わってしまったように思いがちです。
しかし「もう泣かなくともよい」「死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14~15節)とあります。悲しみの中に生きている者に声をかけられ、尚も生きるように支えてくださり、死んでしまった者に手を触れてくださって再び起き上がらせてくださる、主イエスが私達の傍らにおります。私達はこの奇跡を疑ってはなりません。死者の甦りを見る事ができる目を私達は既に神様から与えられております。闇のようなどん底の中に、命に至る道が貫いている事を示してくださる為です。
私達の人生の数えきれない喜びや悲しみの刻まれた大切な命が、どこかに消えてしまう事がない為に、そのかけがえのない大いなるものとして、私達の命があり続ける為に、主イエスご自身の全存在をかけて十字架上に死んでくださり、そして復活されたという事実を聖書は示しております。その為に私達は死んでもこの息子のように甦る事ができ、永遠の命が保障されています。私達の信じる思いと主イエスの愛によってその奇跡は現れます。
永遠の命は死んでから後にあの世で与えられるものではなく、キリストを信じた途端にこの地上で既に与えられています。永遠の命とは限りなくいつまでも生きながらえる長寿ではなく、キリストと結ばれてその命に生かされる本来あるべき人間の姿であり、完全な命とも言えます。
キリストと結ばれている私達は、現在既にあの世への途上を歩んでいる最中です。今、その永遠の命に生かされているという実感はおぼろげにしか分かりませんが、やがて天国に移された時にはっきりとその目で確かる事でしょう。そこにはもはや死も悲しみも嘆きも労苦もなく(黙示録21:4)既に召された家族・知人と再会する喜びがありますから、その恵みをこの世において先取りしつつ、あの世で完成する時の恵みを見据えてこの今の時を尚、希望を持って歩んで参りましょう。
カテゴリー: 2008年度
3月22日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「清算の時」 マタイによる福音書25章14~30節
⑴神は誰にでもタラントン、すなわち賜物を与えておられます。しかし賜物には違いがあることも明らかです。「タラントン」は、「能力」、「才能」を表しますが、それらが全てではありません。
私達は親兄弟、生まれてくる時代も、国も選べることは出来ません。健康な人もいれば、病弱な人、障害を持って生まれて来る人もおられます。皆条件は違います。人生の条件を誰も決めることは出来ません。しかし誰にでも素晴らしいタラントンが与えられているのは事実です。
大切なことはそれを発見し、用いることです。タラントンを発見するということは、人生の目的あるいは使命をそれを通して見出すことにつながります。なぜならば、神は目的をもって、一人びとりにタラントンを与えておられるからに他なりません。
その目的をもってタラントンを与えてくださった神の御心に応えて行く時、人生は実り豊かなものになります。
⑵私達が人生の清算をする時、神がご覧になられる基準は、忠実であるということです。五タラントン増やした人も、二タラントン増やした人も「忠実な僕だ。よくお前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(21)と、同じ褒め言葉を頂いております。
問題は一タラントン与えられた僕の態度です。彼はタラントンを用いずに穴の中に隠してしまいました。彼の心の中に何かふてくされたような信条を見ることができます。
私達は「神の作品」(エフェソ2:10)であって、大量生産されるような「製品」とは違います。「神の作品」であるということは、私達一人びとりは、神にとって独自のものとして創造されたことを意味し、そこから私達の内にある無限の可能性を見出します。
一タラントンの価値は、二十年分の給料ほどあります。大変な金額です。一タラントン与えられた僕の問題は、素晴らしいタラントンが与えられていたにも拘わらず、その価値を知らなかった点にあります。その愚かしさはこの後、自らのメシアを十字架につけて殺してしまった人々の中にも見出します。
私達はどうしたら抱きがちな不平不満から解放され、積極的な前向きの実りある人生を全うする事が出来るでしょうか。それは神がその独り子の命さえも私達の救いのために与えてくださり、復活された恵みを覚える時、私達は与えられているタラントンを神の栄光のために用いる者と変えられていくのです。
3月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
「踏み出す歩みとは」 ローマ信徒への手紙13章8~10節
日常生活で逃げたり曖昧にしている事柄を、神は露わにされます。そしてボロボロの姿で神と人の前に立たせられ、自分の恥ずべき事が明らかにされます。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(詩119:71)砕かれ撃たれて初めて目覚めさせられ、厳しいと思われた掟が、どん底で人間を支える力となります。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」(8節)私はこの掟から逃げていましたが、愚かな者を用いて愛し合う事の恵みを証しせよ、と信仰の決断を迫ってこられました。
ここでの「借り」とは金銭でいう借り、負債を表しており、私達の罪の救いの為にイエス・キリストを十字架に迄架けてくださった、神の愛に対しての借金という意味です。神へのその借金を、全ての人を愛する事によって返しなさい、という命令ですが、愛の行いには際限がないので返しきれない借金で、一生涯負っていかなくてはなりません。ですので愛の借金を負わない方が恥ずかしい事になる訳です。
しかし、全ての人を愛する事は困難を覚えます。ヨシュア記20章に、故意ではなく誤って殺人を犯した人が逃げ込む「逃れの町」について記されています。たとい殺す意図がなくとも、殺された側の感情は抑えきれないのが現実です。故に報復の連鎖が互いを傷付けないように、逃れの町が備えられました。自分が被害者的な存在になっている限り、愛は生まれません。人が自分に何をしたかではなく、十字架の神が私に何をしてくださったか、から始めるなら、全ての人を愛する事が可能となっていく筈です。「敵を愛し・・・あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」(マタイ5:43~48)自分の力では不可能ですが、完全な神の前に立ち続けるなら、この罪人も変えられていきます。
「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」(9節)
という律法を守り間違いを犯さない、消極的な生き方ではなく「愛し合う」という、積極的な一歩踏み出した生き方が救われた者としての歩みではないでしょうか。踏み出して失敗し、裏切られ傷つくかもしれませんが、そのような悪戦苦闘する歩みが価値ある人生だ、という事をつくづく思わされています。キリストの痛みを自分の痛みとして「互いに愛する」という、踏み出す歩みを共にさせて頂きましょう。
3月8日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「待ち望む心」 マタイによる福音書 25章1~13節
⑴「教会成長はクリスチャンが妨げている」の著者、車順潤女史に言わせると、福音は人間の力で伝えられるものではなく、聖霊によらずして出来ないことですが、聖霊が臨在されている人は、「聖別意識」を持っているとの特徴があると言うのです。
み言に忠実に従う人ならば、人は万物の中で聖別された者、神の御霊に生かされている尊い存在であることは知っていますが、み言に従おうとしない自己本位な人の特徴は、聖別意識がなく、そのような人は確信も喜びもなく、それ故に信仰生活には葛藤が多く、情緒不安定であり、現実に起こる問題にいつも振り回されてしまう、このような人によって教会の権威は地に落とされ、聖霊によって清められ、高められなければならない教会を物質と人間の学識の下に置いてしまう、聖別なき信仰者は自分の罪に悩むことはあっても、聖霊を汚す罪、すなわち、この世でもあの世でも赦されることのできない罪を恐れない、聖別された者の身分を意識して生きる者の中だけで働かれる聖霊によって教会は正しく成長する、と言うのです。
しかし、サタンは世の光である神の子を恐れ、どんな暗黒でも小さな光にかなうことが出来ないように、クリスチャンは聖別意識に生きる光の子となってこそ世に勝ち、従って教会の権威は世に輝くのです、と結んでおられました。私たちは聖霊に満たされ、はっきりとした聖別意識を持っているか否かが問われているのです。
⑵愚かなおとめたちだけでなく、賢いおとめたちすらも眠り込んでしまいました。実は私たち皆がそのような弱さを持っていることを前提にして、主イエスはこのたとえを語っておられるのです。
愚かであるか、賢いかの違いは、予備の油を備えていたかどうかという点にありました。この油を賢いおとめたちは、愚かなおとめたちに分けてあげたくとも、分けてあげる事の出来ないものでした。
「罪の赦しの恵み」は、本人が主イエスを信じ受け入れなければ、他の人から分けてもらうことは出来ないものです。「聖霊」もしかりです。当人が自らを主イエスに明け渡すことなくして、聖霊に満たされることは出来ません。
信仰は理屈ではなく、体験出来ることです。御霊のことは御霊によってしか知ることは出来ません。主イエスの恵みによって罪赦されているとの信仰に立つならば、再臨の主の前に平安なる思いをもって立つことが出来ます。キリストの御霊である聖霊に満たされているならば、思い煩うことなく常に平安です。
私たちの今の状態は、果たして再臨の主イエスの前に平安なる思いをもって立ち得るでしょうか。
3月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「目覚めよ」 マタイによる福音書 24章36~44節
⑴主イエスはいつ再臨されるのかは、父なる神以外の誰も知りません。故に信仰生活は待ち望む日々の生活であると言えます。主イエスが与えてくださる平安をもってその時を迎えることのできる人は幸いです。
私たちは魂に平安を得るために試行錯誤しますが、この世において幸せを保証するように見えるものをどんなに獲得したとしても、死後の魂に平安を与える保証になるものは、何一つありません。
真の平安は主イエスと出会わなければ決して得ることはできないのです。
⑵主イエスは「だから、目を覚ましていなさい」と命じられます。私たちにとっての信仰の一歩は何だったでしょうか。それは罪深き自分を見出すことであったはずです。
F・キンローは、ある印象深い説教者のことを霊想録に書いております。その説教者は講壇に女性を呼んで、彼の持っている水の入ったコップを思いっきり揺さぶるように指示しました。その結果、水は零れ落ちました。そこで彼は彼女に「どうしてこのようになったのでしょうか」と尋ねると、彼女は「私が腕を揺すったからです」と答えると、彼はこう語りました。「違います。水がこぼれた本当の理由は、コップの中に水が入っていたからです」と語り、こう続けました。
「職場にイライラさせる人がいたとしましょう。しかし問題はイライラさせる人にあるのではなく、ただあなたの心の内に存在しているイライラの要素をかき立てているに過ぎないのです。
罪はあなたの内側から始まります。誰かがあなたよりほんの少し早く昇進しただけで、自分の内に嫉妬心が燃え上がるのに気付きます。嫉妬心は最初からあなたの内側にあるのです。先に昇進した人は既に宿っている嫉妬心を表面に浮かび上がらせただけなのです。あなたの内に存在しないものを引き出すことは誰も出来ません」というメッセージを聞いたキンローは、このように結んでおりました。
「全ての人の心は聖霊によるきよめの業を必要としています。私たちをイライラさせたり、怒らせたり、嫉妬心をかき立てたりする人がいることを神に感謝すべきかもしれません。そういう人は私たちの内に潜んでいるものを教えるために神が備えられた道具なのです。イライラさせるその人が、私たちの心の実態を映し出し、心に染み付いた汚れをさらけ出す時こそ、その心を全く洗いきよめて純白にしていただく絶好の機会なのです」と。
常に信仰の目を覚まし、神のみ言に耳を傾け、そして主イエスの再臨がいつ来ても慌てることのないように、神を信じる心を守り続けたいものです。
2月8日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「再臨その時」 マタイによる福音書24章29節~35節
(1)主イエスは十字架を目前とされた時、再臨について語られました。
この後の例え話しのいずれも再臨の主とどう向き合うかが語られております。すなわち、私達にとっての最終ゴールは、主イエス・キリストの再臨のその時です。終末の徴(しるし)ではないかと思えるような現実的な出来事が見えます。まだまだ先のことかもしれません。けれどもいつ来ようとも、誰もがその時を迎えなければなりません。果たして私達にとって、喜びの時となるでしようか、あるいは恥ずかしさを覚える時となるでしょうか。
(2)再臨の時に、明確な徴が現れることを主イエスは語られます。それは「人の子の徴が天に現れる」(30)ということです。古来からの考えとして、天に十字架の徴が現れ、主イエスが十字架に掛けられた意味を全ての人々がはっきりと悟らさせられるのではないだろうかという考えです。無論飽くまで推定的な考え方ではありますが、いずれの形にしても神の独り子を十字架に掛けてしまったことが示され、全ての民族が悲しむ時が来る、と主イエスは語れらました。
もう一つの注目点は「人の子は大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(30)ということです。すなわち、「もしかしたらメシアかもしれない」というような暖味な形ではなく、誰もが「この方はメシアである」と確信せざるを得ない形で、主イエスは再臨されるというのです。その時、人々は自らの罪を悲しみつつ再臨の主イエスを仰ぎます。
(3)神の言葉は必ず成就します。けれども主イエスは「これらのことがみな起こるまでは、この時代は滅びない」(34)とも語られました。マルチン・ルターは「信仰とは待つことだ」と語りましたが、キリスト者は再臨の主イエスを待つ者です。そして大切なことは36節以降にあるように「目を覚ましている」ということです。ウィリアム・バークレーは「およそものを考える人間ならば、次の三つのことを間わざるを得ないであろう」と語り、①「私は一体誰なのか」②「私の住むこの世界は、どういう世界なのか」③「この変化する世界の背後にあるカは何なのか、また何者なのか」という間いを掲げ、「これらの根本的な問題を携えて聖書に赴くなら、我々はそれが全部答えられているのを、とりわけイエス・キリストにおいて答えられているのを見出すであろう」と。主イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(35)と語られました。
1月25日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「内面を見る主」 マタイによる福音書23章25節~39節
(1)本日の箇所は山上の説教と対になっております。山上の説教は8つの幸いが語られているのに対して、本日の箇所は7つの不幸が語られております。23章14節の御言の後に、太自の十字架のようなマークがありますが、以前ここにもう一節あったが、外されたことを意味しております。有力な写本にこのことがなかったために、定本から外されたのですが、以前の翻訳では8つの不幸が記されていた時代もあった訳です。
しかし明らかなことは、幸いと不幸は対となり、表と裏の関係にあることが意識されていたようです。山上の説教の最初が「心の貧しい人々は幸いです」で、始まっておりますが、「心の貧しい人」とは、自分には何もなく、神以外に頼るもののない人を意味します。一方の不幸な人々のタイプとして最初に語られる人々は、「先生」、「父」、「教師」と呼ばれることを好む高ぶる者、偽善者であると主イエスは、13節以降に語っております。主イエスが問われているのは内面です。
(2)偽善者の特徴は、罪の現実を暖味にする点に現れてきます。「墓」や「記念碑」とはどのようなものでしょうか。過去の偉業を讃えるものです。「預言者の墓を建てる」ということは、どのようなことでしょうか。預言者と彼を通して告げられた神の御言を過去のものとして葬り去り、自分とは関係ないものとしてしまうことです。律法学者、ファリサイ人たちは、表向きは敬っているようであって、自分たちに向けられている神の言葉を過去のものとし、拒もうとする頑なさを彼らの姿の中に見出します。
(3)エルサレムの町をご覧になられ嘆かれた主イエスの嘆きは、今の私達に向けられた嘆きでもあります。この度イスラエルに研修旅行に行かせていただき「主泣きたもう教会」に行くことができました。そこにはめん鳥の親が雛を羽の下に集めて守ろうとしているレリーフがありました。そのめん鳥は言うまでもなく神の姿であり主イエスはその救いへと招こうとしておられるのです。
「主の名によってこられる方に、祝福があるように」(39)は21章9節において子ろばに乗って主イエスがエルサレムの町に入場された際に、迎え入れた大勢の群衆が叫んだ喜びの声ですが「主の名によってこられる方」とは、主イエスを指しております。主イエスは「今から後、決してわたしを見ることがない」と語られましたが、この世から離れようとしておられる主イエスは、再臨されるお方です。この後十字架に追いやろうとする人々も主イエスを歓迎し讃美するその時が来るのです。
2月22日 礼拝説教概要 東海林主任牧師
「原石は静寂なり」 ヨハネによる福音書15章1節~17節
(1)実を結ぶ事は主よりの命令ではなく約束です。ですから歯を食いしばって、一生懸命努力して実を結べ、とは主イエスは言われませんでした。この約束を信仰をもって受け入れるならば、あなたは実を結ぶことができる、と言われるのです。その場合の問題点は、主イエスと結び付いているかどうかとの点にあります。
主イエスに繋がるならば三つの根本的な問題が解決します。第一は過去の問題に対する救いが与えられる、ということです。「御子イエスの血によってあらゆる悪から清められる」(ヨハネ-1:7)とあるように、罪は赦され、きよめていただく恵みが与えられます。故に過去の問題を引 きずり苦しむことはありません。
第二は将来にある最大の問題である「死」に関して救いが与えられているということです。なぜならば主イエスは復活の御業をもって、救いを与えてくださったからです。
第三は過去の問題と将来の問題が解決されているとい うことは、現在の問題をも解決されていることをも意味します。なぜならば、現在はキリストに在る未来の希望に問題は問題でなくなってしまうからです。
主イエス・キリストの「十字架」、「復活」こそ、過去、現在、未来に至る全ての問題の解決、救いです。
(2)実を結ぶ秘訣が7節にありますが、三つのポイントがあります。①「わたしにつながっていれば」、②「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」、③「望むものはなんでも願いなさい」ということです。「そうすればかなえられる」と主イエスは約束されました。信仰生活の中で祈りが応えられた体験や神に取り扱っていただいた体験をすると信仰生活が実に楽しいものになります。どんなに困難な問題が起ころうとも、信仰に生きる者は必ず乗り越える道が主より備えられていることを体験的に知っていますから、ハードルが低く見えて来るものです。
(3)16節において、神の選びが語られていますが、愛なる主イエスにつながることが実を結ぶことの秘訣です。問題は原石に戻ることです。キリストの愛に応えてゆける者は、無色透明な原石のような存在です。その中には「主を信頼する思い」以外のよけいなものが入っていませんから、そこから生まれてくるのは豊かな実です。原石から生じる静寂な心、すなわち主を待望する心をもって、主がなしてくださるみ業を期待しつつ、信仰をもって歩みを続けてまいりましょう。
2月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師
「行き着く場所」 ローマ信徒への手紙12章1節~8節
イエス・キリストは私達の罪から救い出す為に苦痛の中、十字架にお架かりになり、その命を献げてくださいました。その犠牲に応える為に自分の身体を献げ(1節)、神から託された使命を全うするように、と記されています(6~8節)。キリストに結ばれている私達は神に対して特別の働きがあり、その為に全ての人に賜物が与えられています(4~6節)。ですから賜物を自分の楽しみや名誉の為に用いるのは目的が違います。
奉仕等の働きは神に向かって成されるものですから、人の様子を見てするものではなく、他人がどうであれ、神の恵みに対して感謝と喜びを持ってお献げする事が、神の御心です。隠れた事を見ておられる神が報いてくださり、答えてくださいますから、右の手にする事を左の手に知らせる必要はありません。旧約聖書のネヘミヤ記に神殿建築の際に携わった人々とその働きが忠実に残っています。私達の奉仕もこのように天国に記されていますから、何という感謝な事でしょう。
信仰の喜びは十字架に結び付く献身を通してのみです。私は信徒の方々から多くの事を日々教えて頂いておりますが、我が振りを教えられのは、無言の内に陰で一生懸命、神にお仕えしておられる信徒の方々の後ろ姿です。その背中を見せて頂く度に、いつも神から「あなたは本当に神に教会に仕えているか?」と強烈に問われます。そうして、今一度新たな思いで神と人の前に立たせて頂いております。そのような後姿に牧師は支えられ、教えられて成長させて頂くのです。このようにして関係を結びながら、信徒の方も牧師も共に自分の限界を超える働きをさせて頂いて、教会は祝福され前進していくのだと思います。共に献身の中で喜び、感動を頂きながら成熟させて頂き、行きつく場所は更なる神の恵みの元に置かれます。
このように賜物を持って、犠牲をもいとわず積極的に信仰生活を目指すには、慎み深さが必要であると記されています(3~5節)。どのように大きな働きに見えようが、他の人と共に自分も用いられているに過ぎず、キリストの体の一部としての働きでしかない、という事を弁えていないとならないとあります。多くの肢体の一つの働きに担わせて頂いている、という認識が慎むという事です。お互いが他の支えとなって、この身を献げながら人をも生かしていくのが教会です。共にその使命を全うしていきましょう。
2月1日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師
「惑わされることなく」 マタイによる福音書24:1~14
⑴主イエスは「この世の終わりがある」ことを明言されました。そしてそのことに伴い様々な徴が現れることを語られました。しかし大切な心掛けは、「惑わされないこと」いうことです。また主イエスは殊更に不安を与えようとして語られたのではなく、「世の終わり」は、「救いの完成の時」であることを語っておられます。この神が定められた最後の到達点を見ずに、社会的環境を通して現れる世の終わりの徴だけを見るならば、人は絶望せざるを得ません。
⑵人は不安を抱くどの時代においても確固たる寄り所を求めているものです。ガリラヤという田舎から出て来た主イエスの弟子達の目には、エルサレムの神殿は実に荘厳で、頼りがいのある存在でした。ところが主イエスは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と語られました。弟子達には不動な存在に見える神殿が崩壊するなどということは、想像すらすることのできないことでした。そのような彼らに対して主イエスは「これらすべての物を見ないのか」(2)と語られました。
すなわち「あなた方は本当のものが見えていない、本当に寄り頼むものは何か」と問われたのです。
⑶主イエスは終末に伴う6つの徴について触れられました。①「わたしがメシアだ」と、惑わす偽者の出現。②戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くこと。③民同士の敵対や飢饉、地震。④信仰故に殉教者が起こること。⑤つまずき、裏切り、憎しみ合いが起こること。⑥不法がはびこり、愛が冷えること。いずれも私達の置かれている現実です。真面目に生きようとする者が馬鹿を見るような現実、人を愛そうと思っても、必ずしも愛をもって応えられるわけでもありません。むしろ善をもってした業が、悪意をもって応えられることすらあります。結局これらの徴が現れる先には何があるかと言うと、刹那的な生き方と破滅でしかありません。この先世の中はどうなってしまうのか、誰もが不安を抱いております。
⑷結論は全世界に福音が宣べ伝えられてから、終わりが来る、ということです。預言者エゼキエルは神殿と神の都エルサレムから主の栄光が去っていくことを霊の眼をもって見ていた人物でした。しかしその彼は‶この都の名は、その日から、「主がそこにおられる」と呼ばれる。″と最後のエゼキエル書48:35に記しています。すなわち失望するような中にあっても、信仰の眼が開かれている人は、臨在の主を見、その回復を夢見、真に寄り頼むべきお方はどなたであるかを悟らされ、そして魂の救いのために、御国の福音を宣べ伝える使命に生きることができるのです。