3月15日 礼拝説教概要 佐々木副牧師

「踏み出す歩みとは」 ローマ信徒への手紙13章8~10節
日常生活で逃げたり曖昧にしている事柄を、神は露わにされます。そしてボロボロの姿で神と人の前に立たせられ、自分の恥ずべき事が明らかにされます。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」(詩119:71)砕かれ撃たれて初めて目覚めさせられ、厳しいと思われた掟が、どん底で人間を支える力となります。「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません。」(8節)私はこの掟から逃げていましたが、愚かな者を用いて愛し合う事の恵みを証しせよ、と信仰の決断を迫ってこられました。
 ここでの「借り」とは金銭でいう借り、負債を表しており、私達の罪の救いの為にイエス・キリストを十字架に迄架けてくださった、神の愛に対しての借金という意味です。神へのその借金を、全ての人を愛する事によって返しなさい、という命令ですが、愛の行いには際限がないので返しきれない借金で、一生涯負っていかなくてはなりません。ですので愛の借金を負わない方が恥ずかしい事になる訳です。
 しかし、全ての人を愛する事は困難を覚えます。ヨシュア記20章に、故意ではなく誤って殺人を犯した人が逃げ込む「逃れの町」について記されています。たとい殺す意図がなくとも、殺された側の感情は抑えきれないのが現実です。故に報復の連鎖が互いを傷付けないように、逃れの町が備えられました。自分が被害者的な存在になっている限り、愛は生まれません。人が自分に何をしたかではなく、十字架の神が私に何をしてくださったか、から始めるなら、全ての人を愛する事が可能となっていく筈です。「敵を愛し・・・あなたがたの父が完全であられるように、あなたがたも完全な者になりなさい。」(マタイ5:43~48)自分の力では不可能ですが、完全な神の前に立ち続けるなら、この罪人も変えられていきます。
 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」(9節)
という律法を守り間違いを犯さない、消極的な生き方ではなく「愛し合う」という、積極的な一歩踏み出した生き方が救われた者としての歩みではないでしょうか。踏み出して失敗し、裏切られ傷つくかもしれませんが、そのような悪戦苦闘する歩みが価値ある人生だ、という事をつくづく思わされています。キリストの痛みを自分の痛みとして「互いに愛する」という、踏み出す歩みを共にさせて頂きましょう。