2月8日 礼拝説教概要 東海林昭雄牧師

「再臨その時」 マタイによる福音書24章29節~35節
(1)主イエスは十字架を目前とされた時、再臨について語られました。
この後の例え話しのいずれも再臨の主とどう向き合うかが語られております。すなわち、私達にとっての最終ゴールは、主イエス・キリストの再臨のその時です。終末の徴(しるし)ではないかと思えるような現実的な出来事が見えます。まだまだ先のことかもしれません。けれどもいつ来ようとも、誰もがその時を迎えなければなりません。果たして私達にとって、喜びの時となるでしようか、あるいは恥ずかしさを覚える時となるでしょうか。
(2)再臨の時に、明確な徴が現れることを主イエスは語られます。それは「人の子の徴が天に現れる」(30)ということです。古来からの考えとして、天に十字架の徴が現れ、主イエスが十字架に掛けられた意味を全ての人々がはっきりと悟らさせられるのではないだろうかという考えです。無論飽くまで推定的な考え方ではありますが、いずれの形にしても神の独り子を十字架に掛けてしまったことが示され、全ての民族が悲しむ時が来る、と主イエスは語れらました。
 もう一つの注目点は「人の子は大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る」(30)ということです。すなわち、「もしかしたらメシアかもしれない」というような暖味な形ではなく、誰もが「この方はメシアである」と確信せざるを得ない形で、主イエスは再臨されるというのです。その時、人々は自らの罪を悲しみつつ再臨の主イエスを仰ぎます。
(3)神の言葉は必ず成就します。けれども主イエスは「これらのことがみな起こるまでは、この時代は滅びない」(34)とも語られました。マルチン・ルターは「信仰とは待つことだ」と語りましたが、キリスト者は再臨の主イエスを待つ者です。そして大切なことは36節以降にあるように「目を覚ましている」ということです。ウィリアム・バークレーは「およそものを考える人間ならば、次の三つのことを間わざるを得ないであろう」と語り、①「私は一体誰なのか」②「私の住むこの世界は、どういう世界なのか」③「この変化する世界の背後にあるカは何なのか、また何者なのか」という間いを掲げ、「これらの根本的な問題を携えて聖書に赴くなら、我々はそれが全部答えられているのを、とりわけイエス・キリストにおいて答えられているのを見出すであろう」と。主イエスは「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(35)と語られました。