何事にも時がある

コヘレトの言葉3章1~11節

澤田 武師

主題聖句 「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を初めから終わりまで見極めることは許されていない。」 コヘレトの言葉3章11節
 「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と、この世で起こる出来事の全ては神様が「定められた時」、神様の時であるとコヘレトは言います。コヘレトが示した「時」は、誰の人生にも、いつの時代にも起こる出来事の一部であり、コヘレトは、それぞれの時が良い時なのか、悪い時なのか、判断や評価を表しません。信仰者はこの時を必然、神様のみ旨と受け止めます。神様が備えられた時の中に私たちは生きています。また、信仰者でない人たちは、それを偶然と呼び、時には運命として諦めて受け止めます。
 それでも神様は「永遠を思う心を与える」、私たちに永遠を示してくださるとコヘレトは言います。「永遠」という言葉には「物事の内に隠されているもの」という意味もあります。永遠を思う心とは、この世の時の中には神様が居られ、出来事の本質は神様が起点となって起こることを知る、ということです。永遠を思う心を与えられ、そこに私たちは生かされているのです。
 「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。」とコヘレトは言います。コヘレトはイエス様を知りません。ここに旧約の限界があります。しかし、私たちはイエス様を知っています。イエス様の十字架の贖いと復活を信じる者に、神様は永遠の命を与えられ、神様の御心を示されました。
 私たちは誰でも必ず‟天に帰る時“がきます。また、天に帰る人々を‟見送る時”があります。その時がいつ来るのかは神様のみがご存じです。いつの世にも、どんな場にも、神様の厳正な「時」があります。
 聖徒の日は「永遠を思う心を与えられた者」であることを確信し、既に天に帰られた‟聖徒の方々と共に礼拝を守る時“です。‟十字架を見上げる時”、かつての聖徒の方々は、信仰者として永遠に存在しておられることを確信する、‟福音を聞く時”です。私たちに赦された信仰者としての地上の歩みを、歩み切りましょう。
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