最後に残る喜び

フィリピの信徒への手紙2章12~18節

澤田直子師

主題聖句 「同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。」 フィリピの信徒への手紙2章18節
 「喜び」という言葉から多くの方が思い浮かべるのは、テサロニケ一5:16の「いつも喜んでいなさい」でしょう。テサロニケの手紙は、パウロが書いた手紙の中でも初期のものです。そしてフィリピの手紙はずっと後、ほとんど晩年に近い時期です。つまりパウロは最初から最後まで、どこの教会にも「喜びなさい」と言いたかったのです。
 ここでは「従順」を説いています。神に対する従順とはただ上からの命令を聞くだけではありません。他の誰よりも、神様がわたしたちを救いたい、救わなければ、と心を定めておられます。そして、自然の中に神様の御業を表わし、イエス様の十字架と復活を通してその愛を表わされました。パウロが説く従順とは、この愛から離れないで、神の愛の他の何にも揺らがない事でした。
 14節は少し格調高く訳されていますが、「ブツブツ言わないで、グズグズしないで」というような意味です。わたしたちはすぐにブツブツ言い、グズグズします。そうしている間は先に進まなくていいし、実行しなければ責任を取らなくていいからです。しかしパウロは、16節にあるように「労苦」から逃げませんでした。「労苦」は、疲労困憊するまでやり切る、あるいは、競技者が厳しい鍛錬をやり抜くようなイメージの言葉が使われています。神への従順を身をもって示したからこそ、自分がいなくなっても、フィリピの教会が神の愛に従順であるように願ったのです。
 敬老感謝の対象となる兄姉は、人生のある時期から、目に見える秤を捨て、神様の御手の内にある人生を生き抜くことを選んだ方々です。そのために神様から選ばれた方々です。教会という主の御体があってこそ、出会いがあり聖なる交わりがあることを感謝します。わたしたちの中に培われ、養いの元となり、人生を歩み抜く時、最後まで残るものが、どうか主にある感謝と喜びでありますように、と祈ります。
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自分を無にして

フィリピの信徒への手紙2章1~11節

澤田直子師

主題聖句 「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」 フィリピの信徒への手紙2章11節
 2章は、分かりやすい順序を考えて書かれています。1~2節はフィリピの教会が到達すべき最終目標です。スポーツなら「優勝」とか「オリンピック出場」みたいなものです。そのために個々がなすべきトレーニングの内容が3~5節です。ですから、ここだけを取り上げてもメッセージができるところです。しかし、わたしたちはここを読んでその通りだと思っても、果たしてそれをすぐに実行できるでしょうか。
 それで、5節の後半から8節までは、「必ず目標を達成できる」と根拠を証します。目標は良いとして、個々の向上を目指して励むとして、本当にそれで良いのか、できるのか、という不安に応える証です。
 このために、イエス様が「自分を無にして」くださいました。2節「心を合わせ、思いを一つに」するためには、ぜひとも「自分を無にする」ことが必要です。しかし、自分の小ささ貧しさをわかっているつもりでも、明け渡すことは難しい、わたしたちの自我は大きく強いのです。「わたし」という革袋には、今まで生きて来たなかでの様々なものが蓄えられていて、それを空にして神様からいただくものを満たせば良いのですが、そちらの方が良いとわかっていても、自分が貯めて来たものを、良くも悪くも手放したくないものです。そういう人間の姿を理解しその上で神様に明け渡すことを教えるために、イエス様は人間の姿を取って世に来てくださいました。
 ここには大きなパラドクスがあります。神でなければ人を救えない。人は自分の力で自分を救うことができません。でも神様のご計画は、神の力を捨てて人となり、惨めな貧しい生涯をおくったイエス様の十字架によって、救いを成就するということでした。イエス様はそのご計画を全く信頼し、従順に務めを果たされました。その結果、「イエス・キリストは主である」とすべての舌が宣べる希望を持てることになりました。イエス様は、わたしたちの救いのためにご自分を無にしてくださいました。どうお応えしましょう?
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苦難を恐れない

ヨハネの黙示録2章8~11節

澤田 武師

主題聖句 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」 ヨハネの黙示録2章10節a
 スミルナの町は、小アジアとエーゲ海地域にあるローマ領の中で、陸路と良き港の恩恵によって繁栄し、最も商業が盛んな中心地の一つでした。 また、偶像礼拝が盛んで、キリスト教徒とユダヤ人との対立も激しかったようです。スルミナの教会に送られた手紙には、この町で信仰者として生きる者たちへの、神様からの励ましと約束のお言葉が記されています。
 「最初の者にして、最後の者である方」イエス様は唯一絶対のお方であり、何者もこのお方を超えることはできません。イエス様を抜きにしての繁栄は見せかけです。信仰者にとって、この世は栄枯盛衰の儚さを繰り返すだけの場です。しかし「一度死んだが、また生きた方」と、イエス様の十字架と復活にこそ、死をも乗り越える神様の永遠の命と栄光があることを示しています。
 「あなたの苦難や貧しさを知っている。」信仰は世と対立します。信仰を持つが故の苦難や貧しさを知ります。特にユダヤ人が多く住んでいたスミルナでは、ユダヤ人からの迫害が激しくなってきていました。おそらく「ローマ皇帝は主である」と告白すれば、この弾圧からは解放されるでしょう。しかし、それでも信仰を守っていく信仰者の全てをイエス様は知っておられる。何と慰めに満ちた、神様の約束のお言葉でしょうか。
 「本当はあなたは豊かなのだ。」迫害による苦難や貧しさは、神様の恵みが既に豊かに与えられていることを、改めて知る時となります。私たちは、どんなことでも祈ることができるのです。そして、私たちも知らずにたくさんの方々から祈られています。自分だけで生きているのではないのです。神様に生かされているのです。何と励ましに満ちたお言葉でしょうか。
 「あなたは、受けようとしている苦難を決して恐れてはいけない。」イエス様の約束です。イエス様は私たちの悩みも苦しみも全て知っていてくださる。私たちは独りではありません。いつもイエス様は共に居られます。私たちの信仰生活を励ましてくださいます。神様に生かされているという確信をもって信仰者として歩み続けることが叶いますよう、祈り求めて行きましょう。
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初めに立ち戻れ

ヨハネの黙示録2章1~7節

澤田 武師

主題聖句 「だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」 ヨハネの黙示録2章5節a
 イエス様は「あなたの見ていることを巻物に書き、七つの教会へ送れ。今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。」とヨハネに命じます。
 偶像礼拝の中心地に建てられたエフェソの教会へは、「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており、また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」と、異端への対応が完璧になされたことをイエス様は褒められました。しかし、言うべきことがあると手紙は続きます。
 イエス様は「あなたは初めのころの愛から離れてしまった。」と、神様の愛、見返りを求めず、自己犠牲の愛、ἀγάπηの愛を見失っていると指摘します。既にエフェソの教会には神様の愛が無いのです。
 ヨハネは福音書の中で、イエス様のご命令として、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と、兄弟愛に生きることを記しています。
 ἀγάπηの愛はキリストへの愛でもあります。また、同胞への愛でもあります。この二つの愛は一体であって、これを分けて行うことはできません。
 エフェソ宣教、その初めには熱心さや、喜び、共に集う者への兄弟愛がありました。しかし今、愛は変質して同胞の信仰を裁く言葉となっています。
 「思い出し、初めのころの行いに立ち戻れ。」愛は、悔い改めから再び起こされます。それは神様に委ねる信仰生活へと変えられ、証として表されます。
 「耳ある者は聞くがよい」エフェソの教会には、「勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。」との言葉がおくられます。
 命の木の実を食べることは、キリストの国で正義の祝福を受けることです。キリストの支配が確立された時、主に忠実に生きて勝利した者は、すべての喜びに預かります。人は人から聞く愛の言葉によって、心が豊かにされます。御言葉を心で聞き、愛の言葉を実践する教会として歩み続けましょう。
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