あなたの信仰

マルコによる福音書5章24~34節

澤田 武師

主題聖句 「イエスは言われた。『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。』」 マルコによる福音書5章34節
 イエス様はご自分から「力が出て行った」ことを感じられました。そして振り返り「わたしの服に触れたのはだれか」と、この群衆の中に居る癒しの救いを求めた “誰か”を探そうとされます。
 イエス様の服に触れさえすれば病は癒される。この迷信的癒しの奇跡を信じて、密かに群衆に紛れ込み、後ろからイエス様に近づき服に触れた女性は、この時、病の癒しを実感しました。願いは叶えられました。
 この女性の病は、律法の規定によれば社会との断絶を強いるものでした。日常生活の喪失の原因ともなり、苦しい闘病生活は人間不信を招き、女性を苦しめてきました。病と律法がこの女性を責めます。しかし、この時迷信的な信仰にさえすがった者が、今、本当の信仰を得るためイエス様と出会います。
 イエス様は“誰か”を探し続けられます。女性はまだ、群衆の中の一人として、その姿をイエス様にはさらしていません。
 女性は戸惑います。イエス様が探されているのは私である。「女性は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり」と、震えながら進み出て、すべてをありのままに話します。イエス様の前に姿を現しひれ伏します。
 『娘よ、あなたの信仰があなたを救った。…元気に暮らしなさい。』イエス様は、この女性の信仰を褒められます。しかし、ただイエス様に触れさえすれば癒されることが病の癒しの信仰では無い。女性ははっきりと知ることになりました。イエス様から流れ出た力は、女性の全てを癒しました。
 イエス様は求める者、一人一人を探し続けてくださいます。将来へと向かう一歩となるように励まし力づけてくださいます。この女性の目に映ったのは、群衆でも律法でもなく、目の前に居られるイエス様のお姿だけです。
 イエス様が褒めてくださる信仰とは、イエス様に委ねきる信仰ではないでしょうか。すべてを託した時、イエス様からの励ましの言葉、信仰の勝利宣言は聞こえてきます。それは私たちの信仰への励ましの言葉となります。
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苦しみも恵み

フィリピの信徒への手紙1章21~30節

澤田直子師

主題聖句 「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」 フィリピの信徒への手紙1章21節
 元律法学者のパウロにとって、「キリスト」とは人を指し示す言葉というよりも、宗教的な信仰的な意味を持っていたと思います。そしてパウロはおそらく人間としてのイエス様に会ったことはなかったでしょう。ですから、ユダヤ人にとって希望の言葉である「キリスト」がイエスであった、という意味合いで「キリスト・イエス」と呼び、自分の生涯の最初から最後までが、キリストの働きの一部として捧げられることを望んでいます。それが「生きるとはキリスト」の意味でしょう。
 それでは「死ぬことは利益なのです」この言葉をどうとらえれば良いでしょうか。わたしたちは、年齢性別にかかわらず、自分も他者も「死ぬことは利益」とは考えません。パウロは過去に天に上げられる、いわゆる臨死体験のような経験をしています。(コリント二 12章参照)この時、パウロが感動したのは、そこでは神様の御旨がはっきりと示された、理解できたということでした。(コリント一 13章)ですからパウロにとっては、死はキリストのために働きを捧げることがもっと容易になり、もっと喜びが増す、そのために扉を開けて階段に踏み出すようなものだったのだろうと思います。
 病後、多くの方が「無理をしないで」と気遣ってくださいますが、よく考えると、ただの人間が福音伝道のために召されること自体が大いなる無理です。コリント一 1:21「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」から、教会は伝道者を一人にしてはなりません。パウロはフィリピの信徒に「共に戦っている」と書き送りました。そして「キリストのために苦しむことも恵み」と言いました。クリスチャンでなければ共に苦しむことはなかったかもしれないが、それでも、キリストを知らないよりも知って共に苦しむ方がずっと良いのです。祈りは聞かれます。主は共におられます。恵みとして与えられる苦しみを避けることなく、主を信じて歩んで行きましょう。
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神様の栄光のために

コリントの信徒への手紙一10章23~31節

澤田 武師

主題聖句 「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい。」 コリントの信徒への手紙一10章31節
 コリントでは、「偶像に供えられた肉」を食べて良いのかいけないのかが重大な問題となっていました。当時、市場では他の神々に献げられた肉も売られていたので、ユダヤ教祭儀律法は市場で肉を買うこと自体を禁じていました。
 イエス様の十字架の贖いを、信仰の自由を与えてくださったと信じる者たちは、神様が供えてくださったものを食べることに支障は無いと主張します。
 しかし、彼らの言動から躓きを覚え、神学的に対立する者たちが起こされました。避けては通ることができない教会の課題の一つとなりました。
 パウロは「市場で売っているものは、なんでも食べなさい。」と宣言しますが、「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。」と、躓きを覚える者たちへの配慮は忘れません。
 パウロ自身はその宣教活動において、新たな信徒を得るためにそれまでの方法にこだわらず、戦略的に伝道を進めています。パウロはイエス様から与えられた信仰者の自由は決して変わらないとの確信を抱いています。それが神様の栄光を現わすものとなるために、パウロは相手によって方法論を変え、自分を規制してまでも、相手の良心に寄り添っていきます。
 私たち信仰者はイエス様を中心として生きています。イエス様はご自分の罪のために十字架に掛かられたのではありません。それは他者(私たち)の罪の贖いのためです。私たちが十字架を仰ぎ見る時、他者のために死んでくださったイエス様のお姿がそこに見えてきます。
 食べること飲むことも含まれる日常の中で、パウロは私たちにも「何をするにしても、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」と語ります。
 神様はあなたを用いて、あなたの弱さの中にも、不足の中にも、神様の栄光を現わそうとされています。今あなたの日常は、あなたが神様の栄光を現わすために備えられた時であることを覚えて、歩み続けましょう。
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平和を語る

詩編120編

澤田 武師

主題聖句 「平和こそ、わたしは語るのに 彼らはただ、戦いを語る。」 詩編120編7節
 詩編120編1節には「都に上る歌」と記されています。続く134編までの詩編も「都に上る歌」と記されています。これらの15編の詩編はユダヤの大祭の時、エルサレムを目指して上って行く巡礼者が歌ったものとして、まとめて記されたものと思われます。
 作者は、「苦難の中から主を呼ぶと主はわたしに答えてくださった。」と告白します。作者が経験した苦難がどのような状況であったのかは分かりませんが、「主はわたしに答えてくださった。」その時神様が共に居られて、作者の祈りに答えてくださった。神様は作者に御心を示しておられました。
 6節、作者は今「平和を憎む者と共に」住んでいるようです。心が神様から隔てられている者たち、偽りの言葉、欺きの言葉を語る者たちと、久しく共に住まなければならない現実を作者は嘆きます。神様からの乖離は不幸であると嘆きます。ここには作者の求める神様の平和はありません。
 しかし、この状況の中でも作者は再び神様を呼び求めます。2節「主よ、わたしの魂を助け出してください。」作者は神様への祈りの言葉は忘れません。平和は神様のもとにこそあります。
 作者は、神様の平和を語ります。例え神様から遠くはなれていても、作者の声をかき消すような、戦いを語る者たちに囲まれていても作者は語ります。
 イエス様が「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と山上の説教で語られた時も、ローマの力は支配地域を偽りと欺きの言葉となって覆っていました。そこにイエス様は遣わされ、十字架の贖いと永遠の命を信じることから与えられる、神様の平和を示されました。
 私たちの日々の祈りは、この現実が変えられ、すべての者たちが平和に生きる世界を求めていきます。私たちは既に平和を祈る者とされています。平和を語る者として生かされたいものです。世に神様の平和を伝えて行く使命に生きましょう。マザーテレサは「平和は微笑から始まる。」との言葉を残しました。愛する人々と共に、神様の愛を語りましょう。
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