真理の言葉を聞く

エフェソの信徒への手紙1章3~14節

澤田直子師

主題聖句 「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」 エフェソの信徒への手紙1章13節
 ペンテコステは教会が誕生したことを記念して捧げられる礼拝です。使徒言行録2章には、使徒たちに聖霊が降り、外国の言葉で福音を語りだしたこと、五旬祭のためにエルサレムに集まっていた人々が、自分たちの言葉で神のご計画を聞き、ペトロの説教を聞いて信じて、その日のうちに3000人が仲間に加わったことが書かれています。
 しかし聖霊の働きは、昔の使徒たちだけでなく、今この時代のわたしたちにも働きかけ、わたしたちの耳を開き目を開き、神のご計画を知らしめ、導いてくださいます。
 エフェソ1:3~10は、まさに頌栄です。ここは、ギリシャ語では句読点も改行もなく一気に書かれています。パウロが神をほめたたえはじめたら止まらなくなってしまった、という感じです。ここに重要な「キリストにおいて」という言葉が繰り返し出てきます。救いの御業のすべては、キリストにおいて計画され、実行され、有効となったことが証しされます。
 3節の「天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださった」ここにはユードギアという言葉が使われますが、これは、神から一方的に溢れるように流れ来る様子を表わします。神の愛アガペーが、見返りを求めず一方的に与えられるように、祝福もまた、資格や地位や行いを問わずに与えられます。
 14節「御国を受け継ぐための保証」保証は13節の証印と同じです。信仰者の正真正銘性と所属とはこの証印によって保証されます。この言葉にはもう一つの意味があり、「手付金」を表わします。つまり、わたしたちに贈られる聖霊はわたしたちが誰のものかを保証し、手付金ともなるということです。ということは、この先、まだ与えられるものが用意されているのです。
 神の国に入る時、わたしたちは、客でも寄留者でも僕でもなく、神の子として迎え入れられます。この恵みを決して手放さずに世を歩みましょう。
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いかに幸いなことか

詩編84編

澤田直子師

主題聖句 『あなたの庭で過ごす一日は千日にもまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。』 詩編84編11
 詩編84編は第一次捕囚の時(紀元前597年)の頃に書かれたと考えられています。エルサレムから900キロ離れたバビロンで、エルサレム神殿を思い浮かべ、懐かしい故郷の音楽にのせて賛美した詩編です。
 神殿の「主の庭」とは、誰でも入れる神殿の玄関広場です。そこに行くまでに自分の目に映っていた様々な景色をありありと思い出して、それがどんなに自分を慰め力づけてくれていたかを思い出しているのです。
 どんなに慕っても、もうエルサレム神殿に詣でることはできない今、その風景を心に思い浮かべることが、信仰者の喜びであり励ましとなっています。
 人間の常として、できている時にはその幸いがわからない。失って初めて、それがどんなに幸せで素晴らしいことだったかを痛切に知る、というところがあります。コロナ対策の中で、わたしたちも、平凡な日常がいかに有難く恵まれたものだったかを知ったと思います。
 84編には「いかに幸いなことでしょう」という言葉が何度かでてきます。今はその幸いを失った者が、幸いを受けていた自分を懐かしみ、その記憶に養われているから勇気を出し、心に広い道を見出すことができるのです。その道を行く人は、どんな苦難や試練の中でも神の御言葉を泉として潤されます。
 神様に愛される時が備えられ、愛する場所で愛する仲間と共に礼拝を献げる恵みを知っているとは、いかに幸いなことでしょうか。世の富と栄光を握って千日を過ごすよりも、神の家の門口に立つ一日を、わたしたちも選びました。いずれ本当にそこに立つ日が来たら、たくさんの懐かしいお顔を見て喜び合うことでしょう。
 太陽であり盾であるイエス様が与えられ、完全な道が備えられ、住むところが用意されています。神の家の門を目指して歩みましょう。
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私たちは神の民

詩編100編

澤田 武師

主題聖句 「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ」 100編3節
 詩編100編は「招きの詩編」と呼ばれています。感謝の献げ物を携え、礼拝者が行列をなして神殿の門を通って主の庭に入って行く際の祈りです。それは特別な礼拝として捧げられるもので、体全体で感謝を表すために、歩きながら歌い踊った詩編であったと考えられます。
 
 2節~4節は礼拝が与える豊かさを示します。礼拝に集うことは喜びであり、祝福です。礼拝を通してこそ、私たちが神様に造られ、神様に養われる者であると知り、神様のものである喜びを知ることができるのです。
 「主に仕える」とは「礼拝」を捧げるという意味です。「喜び歌って御前に進み出よ」、「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ」ためらわず立ち止まらず神様の元へと進む。神様は御前に招いてくださいます。
 「御前」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「顔」と言う単語と関係があります。それは見つめ合う程の距離、神様のすぐ前まで私たちは出て行くことが赦されているのです。それは大いなる感謝であり喜びです。
 私たちは神様の招きに応答するために礼拝を献げます。信仰者にとって礼拝は「感謝」であり「喜ばしい」ことです。そしてそれは永遠に続きます。神様は私たちを日々の苦難から「解放」してくださるために、礼拝へと「招いて」くださり、感謝と喜びあふれる神の庭に入れてくださいます。
 今日からコロナ禍の前の礼拝式次第に戻して礼拝を守ります。私たちは通常の礼拝の再開を祈り待ち望んできました。改めてコロナ禍の約3年間、教会は何を大切にしてきたのか、何を守って来たのかが問われています。
 「全地よ」との呼び掛けは、この世の全ての者に向けられています。礼拝にこそ神様との出会いの喜び、感謝があると呼掛けます。教会は神様の伝道の御業を託されたところです。どうか私たち信仰者の生活が、先に招かれた者の喜びをもって、「主に向かって喜びの叫びをあげよ。」となり続けますように。私たちは「神の民」という生き方を選んだ者たちです。厳密に言えば「選ばされた者」たちです。感謝をもって礼拝に生かされ続けましょう。
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その人たちのものである

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」 マタイによる福音書5章10節
 「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と、イエス様は語られました。歴史の上で、クリスチャンに対する激しい「迫害」が行われた時代がありました。
 10節で使われているギリシア語は現在形です。イエス様は公生涯の初期の山上の垂訓で、「わたしのために」と、イエス様を信じているということは、悪く言われることもある、それも「迫害」に含まれると言われます。あなた方も迫害に遭うのだと語られました。人の正しさではなく、神様の義に生きる姿は、世の人から見れば、とても受け入れがたいということがあり得ました。そこに世と信仰者との摩擦が起こり、ここから「迫害」「弾圧」は始まります。
 ホーリネス系教会には昭和の宗教弾圧がありました。「迫害」は教会の歴史として、また、当時の信仰者の証しとして今も語り続けられています。
 昭和の弾圧により逮捕されたY牧師は、取調中に担当者の目を盗んで、聖書を読むことが出来たこと、また、係官の気まぐれで留置場で讃美歌を歌うことになった、と書き記しています。先生を逮捕、投獄した者たちは、自分たちが神様の業に用いられたとは思いもしなかったでしょう。Y牧師は、神様との絆が決して切れてはなかった、この出来事は神様からの励ましの糧となった、と証しされています。Y牧師は、この先どうなるか分からない獄中においても、神様との豊かな交わりに感謝し神様の義に生き抜かれた「幸いな人」として歩まれました。「迫害」を通して、神様の約束が確かなものであることを確信し、証しした人々が居られます。
 イエス様が山上の説教に込められた八つの「幸い」を、イエス様は信仰者、一人一人の内に見られていたのではないでしょうか。私たちの信仰は、弱さも不足も持っています。全てが満点であるとは思いません。それでもイエス様は信仰者を「幸いである」と言ってくださる。信仰に不十分な者と分かっていても、イエス様に応答してゆく。その人々をイエス様は「幸いな人」と呼んでくださいます。約束された天の国を受け継ぐ者として歩んでまいりましょう。
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