私たちは神の民

詩編100編

澤田 武師

主題聖句 「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ」 100編3節
 詩編100編は「招きの詩編」と呼ばれています。感謝の献げ物を携え、礼拝者が行列をなして神殿の門を通って主の庭に入って行く際の祈りです。それは特別な礼拝として捧げられるもので、体全体で感謝を表すために、歩きながら歌い踊った詩編であったと考えられます。
 
 2節~4節は礼拝が与える豊かさを示します。礼拝に集うことは喜びであり、祝福です。礼拝を通してこそ、私たちが神様に造られ、神様に養われる者であると知り、神様のものである喜びを知ることができるのです。
 「主に仕える」とは「礼拝」を捧げるという意味です。「喜び歌って御前に進み出よ」、「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ」ためらわず立ち止まらず神様の元へと進む。神様は御前に招いてくださいます。
 「御前」と訳されている言葉は、ヘブライ語では「顔」と言う単語と関係があります。それは見つめ合う程の距離、神様のすぐ前まで私たちは出て行くことが赦されているのです。それは大いなる感謝であり喜びです。
 私たちは神様の招きに応答するために礼拝を献げます。信仰者にとって礼拝は「感謝」であり「喜ばしい」ことです。そしてそれは永遠に続きます。神様は私たちを日々の苦難から「解放」してくださるために、礼拝へと「招いて」くださり、感謝と喜びあふれる神の庭に入れてくださいます。
 今日からコロナ禍の前の礼拝式次第に戻して礼拝を守ります。私たちは通常の礼拝の再開を祈り待ち望んできました。改めてコロナ禍の約3年間、教会は何を大切にしてきたのか、何を守って来たのかが問われています。
 「全地よ」との呼び掛けは、この世の全ての者に向けられています。礼拝にこそ神様との出会いの喜び、感謝があると呼掛けます。教会は神様の伝道の御業を託されたところです。どうか私たち信仰者の生活が、先に招かれた者の喜びをもって、「主に向かって喜びの叫びをあげよ。」となり続けますように。私たちは「神の民」という生き方を選んだ者たちです。厳密に言えば「選ばされた者」たちです。感謝をもって礼拝に生かされ続けましょう。
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