幸い—憐れみ深い人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田直子師

主題聖句 「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。」 マタイによる福音書5章7節
 この「憐れみ」とは、単に同情するということではなく、ローマ12:15『泣く人と共に泣きなさい』のごとくに、相手と同じ痛みを感じ、悲しみや苦しみを分かち合うということです。わたしたちがこの教えに忠実に生きることは不可能です。他人の痛みを同じように感じていたら生きて行けません。
 神様の御目に照らして「憐れみ深い」と言えるのはイエス様お一人でしょう。しかしここでは「人々」と複数になっていますので、そうありたいと願う人々を含めているのかもしれません。
憐れみ深い、ということに関して2つの意味を読み取れます。一つは、隣人を憐れむ心を、今よりもう少しだけ深められないか、ということです。わたしたちは一生懸命であるほど他人に厳しくなりがちです。言葉や思いが通じていない時、自分の発信方法を省みるよりも相手の無理解を責める方が簡単です。どこかに、憐れむ方が上にいて、より完全に近くなければ、という思いがあるのです。しかし聖書は、上から手を出すような助け方は勧めません。イエス様は、わたしたちと同じところに降りてきて「共にいる」という形で救ってくださいました。
もう一つは、憐れみ深くありたいと願いつつそうできない自分を知り、神様にお委ねする覚悟を決める、ということです。聖書がわたしたちに勧める教えはできそうもないことばかりです。福音は見えるものではなく見えないものを大切にします。律法のように、形を整えタブーを犯さないことが第一ではありません。主の十字架に照らして自分の姿を知り、その自分を愛してくださる神様により頼みなさい、と教えるのです。すると、わたしたちの思いは詩編51:19「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」というところに行き着きます。
イエス様の歩みが、なんと憐れみ深い、人の苦しみを苦しむものであったか、レントの時、神の憐れみを求めて歩みましょう。
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幸い—義に飢え渇く人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田直子師

主題聖句 「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」 マタイによる福音書5章6節
 「義」には3つの意味が含まれていると考えられます。第一は「神の義」です。この「義」は神の属性、存在であり事実です。神=義、と表すことのできるものです。第二は信仰義認の「義」です。義ではないわたしたちが、信仰によって義とされる。これは例外なく受動態でしか使えない、「義とされる」という形でしかわたしたちの内には表されないものです。第三は、神の御目に正しいことを行う、という意味の「義」で、これは唯一わたしたちが関わることができる義です。
 内村鑑三は、信仰義認について一文を書いています。その概要は「空気や日の光は人間に不可欠のものだが、人間が造りだすことはできない。創造主がお造りになったものを感謝していただくのみである。神の義もこれに似て、人の努力で得ることはできない。ただ神から与えられるものを信仰の手をもって感謝して受けるのみである。」
 義に飢え渇く人々は満たされる、とあります。ヨハネの福音書に書かれるイエス様の最初の奇跡は、婚礼の宴会のために水をぶどう酒に変えるというものでした。イエス様に命じられた召使いたちは、「かめの縁まで水を満たした」とあります。満たされた水が次に汲まれた時には、良いぶどう酒に変えられていました。満たされるためには、そこに人の働きが加わります。そして満たされたものはもっと良いものに変えられます。
 わたしたちには誘惑があります。自分で自分を「義」としたい、正しいことをしている、言っている、と思われたいのです。この誘惑に負けると、義に飢え渇くことを忘れ、自分で作り上げた偽物の義を身にまとうことになります。
 コロサイ3:9~10

『古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、作り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。』自分の義とは比べようもなく尊く、値なしに差し出される神の義を求めましょう。信仰の手で神の義を受けましょう。
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幸い—柔和な人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。」 マタイによる福音書5章5節
 一般的に日本語で「柔和」という言葉は「不愉快なことをされても仕返ししない。ゆったりしている。思いつめない。」このような思いをもって生きる人々をイメージする言葉です。また、反対に「弱々しい」との負のイメージを与える言葉でもあります。「柔和」という言葉に含まれる色々な感情の中には、「苛立つ・怒る」とう感情は含まれてはいません。
 「柔和」と訳されているギリシア語は「プラウス」という形容詞です。マタイは福音書の中で、イエス様ご自身が、自らを表現される時にのみ用いています。
 私たち信仰者には聖霊が結ぶ実のひとつとして「柔和」が既に与えられています。しかし、自分自身を見つめる時、弱さ、乏しさの故に、怒りを覚え、変えられない自分に苛立ちを感じます。その度に、自分には「柔和」の実は結べないもの、無縁のものと諦めてしまいます。しかし「柔和」とは私たちの感情の在り方の問題ではないし、また努力すれば得られるはずというものでもありません。柔和の有る無しは信仰の問題なのです。
 ひたすら神様の御心に従い続け、沈黙のまま十字架に向かわれるイエス様。そのお姿こそが「柔和な人」そのものです。そして、イエス様がその柔和さによって、この地を受け継いでおられると信じることが、私たちの信仰です。
 私たちにも、この世界では様々な苦しみや悲しみがあります。また悪を行う者の方が、むしろ栄えていると思われる理不尽さの中に生かされています。それでもイエス様の柔和さに支えられて、自らの苛立ちに負けることなく、沈黙して神様を仰ぎ、望みを置く、柔和な人として生きることができるのです。
 柔和に生きることは、かえって損をする、悔しい思いすることが多くなるかもしれません。しかしそこでも神様のお言葉を聞き続けるのです。その幸いを保証してくださるイエス様のお言葉のみを選んで聞き続けるのです。
 パウロは言います。「万事が益となることを知る。」すべてのことが神様の御心であると確信し、すべてを受け入れてくださったイエス様の御心を我が心とすることこそ、「柔和」に生きる人の幸いとなるのです。
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幸い—悲しむ人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」 マタイによる福音書5章4節
 「悲しむ人々は、幸いである」とは、不思議なお言葉です。私たちは悲しみの中には、幸いはありえないと思っています。ふつう、誰もが幸いを望み、悲しみは避けたいと思うでしょう。「悲しみ」と「幸い」とは、正反対の意味を持っている言葉です。本来は「悲しみ」と「幸い」が結び付くことは無いのです。だからこそ、悲しみの中にある人々に、「あなたは幸いです」と言うことは誰にもできません。それは、私たちの日常の中では、あり得ないことだからです。
 それでも「悲しみ」の中に「幸い」を見るとしたら、それは人間的に順境の時には見えなかったものや、感じなかったものを知る、という「幸い」と言えるでしょうか。あるいは、他人の苦しみや悲しみに対して、同じ悲しみをもって、深い思いやりを持てる、という「幸い」なら、あり得るかもしれません。
 しかし人間の感情は、何時かは忘れ去られてしまうものです。「悲しむ人々は、幸いである」とは、イエス様お一人だけが語ることできる真理なのです。イエス様のお言葉だからこそ、私たちは耳を傾けることができるのです。
 聖書では、ラザロの死にあって、マルタもマリアも「ここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。」と、イエス様に訴えます。愛する者の死は深い悲しみとして、彼女たちの目を涙で覆います。
 「悲しみを封印して生きる」これが人間にできる限界です。愛する者を失った悲しみは、決して消えることはありません。そして彼女たちは、悲しみが少しずつでも力を失うことを願っています。そのマルタとマリアの前でイエス様も涙を流されました。共に悲しみの中に居ることから、御業を始められました。そして「ラザロ、出て来なさい。」と、悲しみの根本を取り除くために、奇跡を起こされます。他の誰にでもできない、確かな慰めが彼女らに与えられました。
 悲しみは、その重さを選ぶことはできないのです。誰でも悲しむ者になるのです。だから私たちは、悲しみを、涙をそのままに、共に居てくださるイエス様のもとへと参りましょう。悲しみの中に光る十字架は、私たちに確かな慰めとして与えられています。
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