幸い—心の貧しい人々

マタイによる福音書5章3~10節

澤田 武師

主題聖句 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」 マタイによる福音書5章3節
 私たちは、貧しくならないために働き、日毎の糧をより豊かに得ることを目標とします。貧しくなることを私たちは求めません。また、病は日常を失わせ、悲しみで覆われます。出来ることなら悲しみは避けたいのが私たちの願いです。
 「心の貧しい人々」とは、魂の飢え渇きを覚える人々です。病を負ってこの世から見放された人々です。頼るものを持たない、再び立ち上がることをあきらめた人々です。貧しい人々であるからこそ、今イエス様に従い、共に山へ登ります。求めない、避けたい思いの中に在る人々に、イエス様は「幸いである」と宣言されました。しかし、イエス様は「貧しくなること」を薦めている訳ではありません。貧困を撲滅することは、人類の永遠の願いでもあります。
 「幸いである」と訳されている言葉には「神様に祝福されている。恵まれている」という意味もあります。神様の祝福は、この世の如何なるものでも取り去ることが出来ません。それが既に「心の貧しい人々」には与えられているという宣言です。
 イエス様は続けて「天の国はその人たちのものである。」と断言されます。天の国とは「神様の支配、神様ご自身」を表すマタイ独自の表現です。私たちも礼拝の度に「み国を来らせたまえ みこころの天になるごとく 地にもなさせたまえ」と主の祈りを通して祈ります。この祈りは、既に神様を信じた者の祈りです。「地にもなさせたまえ」これは、天の国が私たちの間にあることを、聖霊を通して私たちの心の中にあることを感謝する祈りです。その歩みこそが「幸いである」とイエス様は言われます。
 クリスチャンの願いは、私の貧しい心に神様が満ちてくださることです。必要な助けと力を神様にのみ見出すこと。生涯感謝をもって歩むことです。クリスチャンは既に「幸いである」。イエス様のお言葉が与えられているのです。
 聖書はマリアの生き方が、「心の貧しい人」、心を空っぽにして神様の御心にのみ従い「幸いの中に生きる」ことを確信した者であると記しています。
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御心を行うために

ヘブライ人への手紙13章20~25節

澤田直子師

主題聖句 「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。」 ヘブライ人への手紙13章21節a
 13章20節は、ご葬儀の終祷に用いられる御言葉です。原文では「平和の神」が最も強調されています。20、21節はいわゆる頌栄ですが、これがこの部分の主題でもあります。
 22節の「勧めの言葉」は、「慰め」とも「励まし」とも訳せる言葉です。外から良いことを教えて勧めるというよりも、同じ仲間として友として、あなたがたと共に歩みたいと願っている、というような思いが見て取れます。
それで、ヘブライ人への手紙は、説教を文字にしたものではないか、と考える研究者もいます。説教するように読むと1時間くらいかかるそうです。
 この時代、ヘブライ語の読み書きができる人はほとんどいませんでした。それでギリシャ語訳の旧約聖書が作られましたが、ギリシャ語でも読み書きのできる人は少なかったのです。信仰者は、ひたすら聞くしかありませんでした。語る方も、正確に伝わり、忘れないように、重要なことは繰り返して語ったでしょう。ヘブライ人への手紙も1回読んで終わりということはなく、何度も読まれ、写しが作られ、貸し出されたりもしたでしょう。そういう状況を思い描きながら、この手紙を味わいたいものです。
 冒頭に戻り、「永遠の契約の血による羊の大牧者」永遠の契約の血はもちろんイエス様の十字架の血です。羊は信仰者だけでなく全ての人を指します。イエス様はヨハネ10章で「囲いに入っていないほかの羊も導かなければ」と言われました。「大牧者」大をつけるのは、モーセとの対比です。モーセも偉大な預言者であり忠実な働き人でしたが、イエス・キリストは神の右におられるお方です。右にいるとは、相談者・知恵者であることを示します。わたしたち人間のことを、正確に神様にお伝えすることのできる唯一のお方がイエス・キリストです。ですから、神様は「御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださる」のです。御心を求めて歩みましょう。
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祈ってください

ヘブライ人への手紙13章17~19節

澤田直子師

主題聖句 「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。」  ヘブライ人への手紙13章18節
 13章の主題は「神に喜ばれる奉仕」です。具体的な善い行いも勧められますが、その中心は、大祭司イエス・キリストを見上げ、従うことです。その続きとして、指導者に従うことが勧められます。ここでいう指導者とは、牧師や神父のような教役者の他に、長老・役員・執事などの、教会の世話役であり時には代表者ともなる信仰者を指していると思います。
 聖書は、指導者を「神に申し述べる者」と呼びます。わたしたちと神様を仲介するのはイエス・キリストただお一人ですが、牧師や役員も時にその一端を担うことが求められるのです。もちろん完全な仲介者になれるはずもありませんが、祈り手として遣わされ、神に申し述べる使命があるのです。ここで「申し述べる」というのは、いわゆる執り成しの祈りと考えてよいでしょう。これは少し怖いことです。わたしが誰かのために祈る時、その誰かのことをどれだけわかっているでしょうか。
 人間の常として、自分の秤で人を測ってしまうことがあります。その人の魂に心を配るつもりで、いつの間にか自分の都合よく事が運ぶように祈っていないだろうか。実は、自分の心配や不安が第一になっていないか。神に申し述べることがちゃんとわかっているか、不安になります。
 この責任の重さに「祈ってください」と頼むのです。神様が真ん中におられ、神様を間にして関係性を作るのが信仰者のありようです。わたしたちは自分の力で明らかな良心を持つことも、すべてのことに立派にふるまうこともできません。神様の光に照らされての明らかな良心であり、神の御前にへりくだることが立派なふるまいです。これらのことを、神様の御用のために行いたい思いがあるので、「祈ってください」と頼むのです。
 牧師が取り組むみ言葉は真理です。簡単に取り扱うことはできません。祈りをお願いすることができる祈りの友が与えられていることに感謝します。
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新しい道を歩む

マタイによる福音書2章1~12節

澤田 武師

主題聖句 「ところが、『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」 マタイによる福音書2章12節
 ヘロデ王はユダヤ人ではなかったため絶えずユダヤ人の反乱を恐れていました。彼はユダヤの宗教や文化を軽視し、その伝統を強制的に変えようとします。
 彼は王宮に尋ねてきた東方の学者たちの話を聞き、祭司長や律法学者たちに預言の意味を調べさせます。聖書にはメシア誕生の預言があり、彼は「真の王の出現」が現実に起こったことを悟りました。ヘロデ王の心を闇が支配します。
 「わたしも行って拝もう」この言葉は偽りです。もし真の思いであったとしたら、ヘロデ王もイエス様を探し求めたはずです。自分の地位が危うい。不安は彼の足を止めます。彼は生涯イエス様と出会うことはありませんでした。
 喜びにあふれた学者たちは携えてきた宝物をイエス様に捧げます。一説には、これらの宝は占星術の道具を売って得たのではないかと言われています。黄金は王の中の王を、乳香は祭司の使命を、没薬は十字架の死を表しています。そこにイエス様のご生涯が表されています。
 私たちは礼拝に何を携えて行くでしょうか。何をお捧げしているのでしょうか。私たちが日常の宝を大切にしていては、神様の前に集うことは妨げられます。万事を整えて礼拝に集うということは、日常の宝を神様に相応しい供え物に変えて、御前にお捧げすることです。
 福音書にはイエス様がお生まれになったのはヘロデ王の時代と記されています。この日から約30年後にイエス様の公生涯が始まります。公現日はイエス様が公生涯に歩み出された最初の時でもあります。ここはとても重要です。
 救い主がお生まれになった。東方の学者たち、野宿をしていた羊飼いたちは、日常から離れ、大胆に救い主を探し出す勇気と確信を与えられました。それは真理の言葉を語り、再び罪の中に戻らない者として、新たな歩みが与えられたことです。「別の道を通って帰って行った」福音の道が示され、導かれたのです。それは神様と共に歩む道です。公現日は私たちに、イエス様を世に知らせるために、一歩を踏み出させる最初の日でもあります。
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まことの光、世に来る

ヨハネによる福音書1章9~14節

澤田 武師

主題聖句 『その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。』 ヨハネによる福音書1章9節
 イエス様が、寝静まったベツレヘムの村の家畜小屋でお生まれになった時、闇夜の家畜小屋の中に新しい命が誕生したことを誰一人知ろうとはしませんでした。ヨセフとマリアは、世の無関心という暗闇の中で子どもを生みました。
 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」と、ヨハネの福音書では、この「暗闇」に「まことの光」として幼子イエス様が与えられたと記しています。
 神様は「まことの光」を全ての者の救い主として、ヨセフとマリアの初めての子どもの姿で、彼らに希望の光として与えられました。また、軽蔑されていた羊飼いたちには、救い主誕生の知らせと共に、夜空一面に輝く神様の栄光、祝福の光として、そして、占星術の学者たちには、砂漠を越えて異国の地ベツレヘムの救い主へと導く星の光、不安を乗り越える勇気の光として与えられました。「まことの光」は新たな命となって、信じる者に歩み続ける力を与えます。
 一方「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」ヘロデ王は恐れを感じました。ヘロデは王という地位に固執します。彼はイエス様を排除するために同い年の幼子をも殺そうとたくらみます。ヘロデ王の心の暗闇は深く重大です。「まことの光」はヘロデ王も照らしましたが、彼は光を探し求めることはしませんでした。彼は彼の宮殿に、暗闇に留まり続けます。
 聖書は「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」と記しています。信仰を告白する。洗礼を受ける決断をされた方々は、それぞれの困難を乗り越えて来られた方々です。既に自分の心の中に、イエス様の光があることを探し当てられた方々です。信仰を告白し神様の子となる資格を得た者たちであり、新たに生まれ変わった神の子です。
 イエス様の光は変わることがありません。イエス様が私たちの間に宿ってくださったクリスマスの喜びが、新しい命となって神様の恵みへと導きます。暗闇の中で輝く光。一人一人の苦難の中で輝く光。変わることのない希望を与えてくださる光。喜びと祝福の光。クリスマスを感謝いたします。
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